「近代の終わりを生きる」 高村薫 2013年 3月23日(土) 第295回オムロン文化フォーラム講演から こういう歴史認識の問題は私は苦手なんですけども、どうしても今の時代避けて通れない事柄ですので、もう少し触れさせてください。日本の学校では、歴史は明治維新でほとんど終わってしまうんですけども、戦後生まれの私の世代を含めて日本人が近現代史を学ばないまま世界に出ていくことが続いているのは大きな不幸だと思います。だいたいのことは知っているという方は多いけれども、近現代史を学ぶときに、何年に何があった、何年に何が起ったということを学ぶのが大事なのではありません。それよりも、日本は先の大戦で世界と戦争をして負けたわけですから、世界の中で日本の大陸進出がどう位置づけられているか、世界の中で日本のアジア侵略がどう位置づけられているか、世界の中で日本の敗戦がどう位置づけられているか、それらを相対的に客観的に学ぶことが大事なわけです。それがまさに戦争に負けるということであります。日本のアジア進出が西欧列強の植民地からの開放を目指したものであったとか、あるいは、植民地にした朝鮮半島や台湾で近代化に寄与したとか、それは日本の側から見た一方的な理屈でありまして、世界においてはまったく意味をなしません。近現代史を学ぶというのは、極論すればそういうことを学ぶことだと言ってもいいと思います。この点に関する限り、日本人の誇りはどうだとか、子供が誇れる日本を取り戻すといった一部の政治家の持論は聞くに値しないものだと思っております。日本人の誇りというのであれば、たとえば戦後68年、日本は先進国で唯一武力行使と無縁であったことを誇れば良いと思います。歴史認識を蒸し返す中国や韓国に対しても、かくも長きにわたって一度も人間に向かって発砲したことがないことこそ戦争を反省しているなによりの証拠ではないかと反論すれば良い、もっとも集団的自衛権を行使していないだけであって、日米同盟に寄りかかって平和を維持している立場としては、なかなか歯切れが悪いという、まあ、現実もありますけども、それでも日本が軍国主義だと言われる筋合はナイはずです。 ともあれ、歴史を眺める視座がずれているために、たとえば従軍慰安婦問題についても的ハズレな反論しかできない政治家の発言がどれほど国益を損ねていることか。 ところで、何が国益になるかという判断も、それこそ物事を単体で捉えていてはできません。たとえばTPPの是非も、単にGDPをどのぐらい押し上げるか、どのぐらい押し下げるか、といった数字で決められるものではありません。TPPで俎上に載せられるあらゆる分野の未来を幅広く眺めるだけでなく、そもそもアメリカがこれに乗り出してきた戦略的な理由や、あるいは、参加各国とこれからどのような関係を結んでゆくのかなど、そういう未来像、さらには韓国や中国の出方次第でこの貿易圏の将来がどうなっていくのか、見通しなどなど考慮に入れるべき事柄はたくさんあります。それらをすべて考慮した上で、やっと日本にとってメリットがあるのかないのかという判断ができる、そういう非常に難しい問題のはずであります。 こうして考えてみますと「強い日本を取り戻す」とまあ豪語する首相が依って立っているのは、たかが個人の思い入れにすぎない、根拠のない危うい希望ではないかという気がしてくるんですけれども、それに賛同する有権者が7割という数字を見ますと、この危うい希望というのは結局、幅広く国民のモノなのかなあと考え込んでしまうこともあります。 で、私は今この難しい時代をどう生きるかということに関して、一つ「多数の声に流されてはならないということ」と、二つ「一つ一つの問題を単体で考えてはならないということ」をお話いたしました。では、三つ目は、これまでのように9時から5時まで、とにかく仕事をしていたら、それで人生が回っていくという頭ではこれからの時代は、たぶん生きていけないだろうという話であります。日本人はむかしから働き者だと言われてきましたけども、実際の生産性という意味では、疑問符が付きます。2010年度の労働生産性の国際比較の数字を見てみますと、日本の就業者一人あたりの労働生産性、すなわち名目付加価値の額はOECD加盟34ヶ国中20位、先進7ヶ国中で最下位であります。製造業の労働生産性は主要21ヶ国中10位ですけども、アメリカの生産性の63%しかありません。これが自称モノづくり大国日本の労働者の現実であります。特に、製造業で労働生産性が低下しているのは、熟練した技術を持たない非正規雇用の増加と呼応しておりますし、労働人口の減り方よりも、生産額の減り方の方が大きい、すなわち、製造業の衰退と呼応しているわけですが、こうして改めて数字で確認しますと、私たちの置かれている状況のキビシサがいよいよ身に沁みてまいります。 で、さて日本人の労働の質が必ずしも高くはないという事実を前に私はいくつか思うことがあります。今の若い方はご存知ないと思いますけども、80年代に「24時間働けますか」という滋養強壮剤のコマーシャルがありました。で、70年代には「モーレツ社員」という流行語もありました。そして、経済も順調に成長を続けていましたので、当時の私たちは、なんとなく日本人は働き者だ、働きすぎなくらいだというイメージだけを持ってしまったのかもしれません。ところが、私が社会人になって、いわゆる企業社会の実態に触れるようになっと時に、アレッと思うことがたびたびありました。つまり、日本人はほんとに働き者なのかという根本的な疑問をチラリチラリと感じたのであります。これはたまたま私が働いていた外資系の企業と比べていたからかもしれませんけれども、どういうところでそう感じたかと申しますと、その時、私が見てたのはホワイトカラーですが、その仕事の仕方全般がユルイ、もしくは、非効率に思えました。夜遅くまで働いているイメージがありましたが、実際には時間の使い方にムダが多かったり、「接待」と称して夜遅くまで飲んでいたり、もちろん数多の大企業には優秀な高い能力をもった人も大勢いたと思いますけれども、平均的なサラリーマンの姿は決して働き者ではなかったように思います。むしろ日本の労働者は終身雇用と年功序列に守られて、ひとりひとりの能力や実績がきびしく問われるということが無かったのではないか、個々の実績が問われないような、実にユルイ、ある意味「天国のようなぬるま湯」が日本の企業社会だったのではないかと思います。で、もちろん、個々の能力や実績を問わない護送船団でも一定程度の経済成長が確保できていたのですから、逆に、経済成長期の日本がいかに稼いでいたかということですけども、おかげで日本の企業社会は次世代を見越して爪を研ぐということをせずに、今日までやってきて、そして今、こうして競争力を失っているのであります。 でもこのままでいいわけはナイのであって、私たちはいよいよ自分たちの足下から見直さなければならない時が来ております。端的に、一人一人がもっと働き者にならなければならないということであります。働き者というのは、長時間働くということではありません。労働生産性を上げる、すなわち付加価値の高い働き方をするということです。そのためには、もちろん企業も非正規雇用の単純労働に依存して利益を上げるようなやり方をしていてはなりません。実際これからは単純労働が求められるような製造業は海外へ出ていく他はないので、国内には付加価値を生み出せる仕事しか残りません。一人一人がそういう付加価値のある仕事を担う労働者になっていく必要があるんですけども・・・
↧