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1:高村薫講演会「近代の終わりを生きる」

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「近代の終わりをいきる」高村薫 2013・3・23NHK文化センター 京都教室 オムロン文化フォーラム にて録音 本日は、今わたくしのように一小説家が考えていることを率直にお話したいと思っております。小説家が今の時代をどう捉えているか。それをどう生きようと思っているかということになりますけども、私はとくに何の専門家でもございません。経済学者でも政治学者でもありませんけれども、小説家であるということは、時代と無関係ではありえません。小説作法や表現の手法自体は、時代や社会から完全に自由でありたいと思いますし、あるべきだとは思いますけれども、小説家には身体があります。その身体が日々生活をして同時代を生きている以上、同時代の空気が小説作法や表現に忍び込んでくることは避けられません。むしろ、忍び込んでこない方が問題であるとも言えます。ともあれそういうわけで、小説家として日々働き、生活者として日々社会を眺め、日々いろいろなことを感じてはいるんですけども、最近は特にいったい何が正しいのかわからないことが、多くなりました。未来が見えないと感じることも多くなりました。ならば今、一生活者として一小説家としてよくよく考えておくべきことがあるんではないかとそういう風に思うのであります。 で、今日は、こうして一段高いところに立たせていただいておりますけども、私が時代と社会を眺めている視線は皆さんと同じ高さにあると思っておりますし、生活者としてかかえている不安も先が見えない落ち着かない感じも、たぶんあまり違わないのではないかと思います。もちろん考え方は人によって様々ですし、私とは違う価値観をお持ちの方もおられると思いますけども、社会全般に所得格差が広がっているのと同じように、生活感覚の差、あるいは価値観の差も広がっているのが今の時代の特徴の一つでもあります。たとえば、原発についての賛否ひとつをとりましても、今日ここにおいでの皆さんのなかで大きく二つに分かれてしまうのでないかと思います。そういう価値観の差が広がっていく時代を私たちひとりひとりがどう生きるかというのが本日私のお話ししたいことのひとつでもあります。 で、今日は「近代の終わりをいきる」という、もうとても大層な演題となっておりますけれども、本日の私の話には柱が二本あります。一本は今がどういう時代であるか、私たちは今どういう時代を生きているのかということであります。そして、二本目の柱は、どういう時代であるかというその認識の上に立って、ではその時代をどう生きるかであります。もちろんハウ・ツーではありませんし、道徳や精神論の話をしようというのでもありません。もっと切実になんとかして不幸にならないように、なんとかして少しでも安定して生きていけたらいいなあという、そういう話だと思っていただけたら幸いでございます。 それでは一本目の柱の話に入ります。私たちは今どういう時代に生きているのか、であります。これは私のようにある程度の年まで生きた人間にはなんとなくつかめることなんですけれども、まだ少ししか生きていない若い人にはなかなか難しいと思います。若い人でもなんとなく鬱陶しいとか  なんとなく暗いといったその時代の空気は直感的につかむことはできますけども、たとえば自分が生まれていない時代と比較して相対的にどうであるかということは言うことができません。今がどんな時代であるかを捉えるには一定の長さの時間軸が必要でありまして、だからこそ人は折にふれて歴史を学ぶわけです。ですから若い方は御両親の話を聞いたり、あるいはご自分で史料や本を開いたりしてできるだけ長いスパンの変化を見渡せるよう少し自覚的に勉強する必要があります。たとえば私自身は自分がまだ生まれていなかった戦争の時代ですとか、あるいは明治大正の日本を理解するために折々に本を読んだりしてそれがどういう時代であったのかをつかみ、そして今はどういう時代であるのかを捉えるようにしてまいりました。人は皆そうして自分が生まれる前の時代について一定程度理解できるようにそれぞれ努力をして、その結果、自分が今どういう時代に生きているのかをつかんでいるわけであります。 で、なぜ自分が生まれていない時代にまで遡って歴史的な経緯や変化を知る必要があるか、もしくは知りたいと努力するか、その理由は、端的によりよく生きるためであります。必要だと直観するので、自覚的に学ぶということです。どんな場面でもどんな事柄でも人には生きるためのカンが働きます。このカンが働かない人は、働く人に比べて大きな困難に直面する可能性が高いと思います。たとえば、「アリとキリギリス」のアリが夏も働くのは単にアリは働き者だから夏も働くのではなくて、冬にコマルと思うから働く。冬にコマルというカンが働くから夏の今働くことができる、という風に考えることができます。一方キリギリスは単に怠け者なのではなくて、今遊んでいたら冬にコマルというカンが働かない、つまり未だ、目の前にない未来に自分が陥るかもしれない危機を感じとってその危機を回避すべく今できることをする。これは人間がそれぞれ生きるために働かせるカンなのであります。自分が生まれていない時代にまで遡って、時代の流れという視点を確保してそこから今の時代を眺めるというのはまさに自分がよりよく生きるためでありまして、生きるためにカンを働かせているのだということであります。 えー、さて、今がどういう時代であるかという本題ですけれども、一定の時間軸のなかで、相対的にこれを捉えるために、「走っている列車とその窓から見える外の風景」にたとえてみたいと思います。で、私のような中高年は、もう60年も同じ列車に乗りつづけております。中学生は十数年、大学生は二十数年、30代の方は三十数年、乗っています。で、私たちはみんな、生まれた時に日本という名前の列車にそれぞれ途中から乗り込んで、死ぬ時にその列車を降りていくという風に考えてください。今現在の乗客数は1億2千万人であります。で、この列車ですけども、私が物心ついた頃、すなわち50年代の終わりから60年代はじめにかけてまだまだ乗り心地は悪かったですし、窓の外の風景は貧しいものでありました。もちろん今と比べて相対的に貧しかったということでして、終戦直後に比べれば、鉄筋コンクリートのアパートができたり、あるいはテレビや冷蔵庫が普及してずいぶん豊かになっておりました。あらためてお話するまでもなく、日本という名の列車は順調に走り続けました。なによりも平和でしたし、そして60年代は高度成長、70年代以降も、概ね3%台の安定成長が続きました。車窓の風景はどんどん豊かになっていて、気がつくと、世界第二位の経済大国にもなっておりました。もちろん風景は必ずしも平坦ではありませんで、途中には二度のオイルショックやプラザ合意、あるいはバブル、バブルの崩壊 がありましたし、阪神大震災以降は大きな地震が多発するようにもなりました。オーム真理教事件のような特異な事件も起きました。子どもの虐待件数は増加の一途にあります。また、失われた10年とか20年とか呼ばれる長い不況とデフレ経済は今も続いておりますが、それでも総じて私たちの目には「繁栄の風景」があったのではないかと思います。
作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

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高村薫・藤原健 作家と新聞記者の対話

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