周樹人先生に捧げる
朱塗りの入り口の「好新村酒家」では、水がたたく音の後に歓声があがっていた。
珠江の河口に養殖池を持つ特約の漁業公司から、金褐色の甲羅を持つ亀が遂に入荷した。誰もが手にとって鈍く光る甲羅をなぞっている。料理長の蔡はさかんに肛門を突ついて臭いを嗅いでいた。
黄沢青(ホワン・ツェチン)はマジックミラーになっている窓から開店前の客席をとおして、満足そうに金甲亀の入荷を見ていた。特にウェイトレスの王千林の笑顔は彼を微笑ませる。そして伸ばしはじめた髭を扱いて、買ったばかりのコンパクト・ディスクを挿入してスィッチをいれた。アバドが振るモーツァルトのK467は、秘め事が成就する予感に溢れている。なんと客のいない店にこうも典雅に合うのか…。奥の壁に貼ってある等身大のビールのポスターの破れも、いつもの朝には不愉快で目障りなひとつにしか見えないのだが、客の子供に悪戯されるままのそれが、今朝は白い大振りな花弁のように見えた。第二楽章と共に入り口の騒ぎから千林が離れて、テーブルを確認するふりをしながらスリットの脚線をこちらに向ける。三年前に背坪の熱帯林研究所の裏から父が拾ってきた十七歳。沢青はその白銀のチャイナ・ドレスの背中を見ながら呟いた。
「この黄さんの妻になりたい…がしかし、なれない。おまえはいつまでも黄さんのチャイナ・ドール…」
鄧小平が亡くなって一年が過ぎていたが、改革開放の勢いは人民をして鼓腹撃壌たらしめていた。
沢青の父、黄沢奇(ホワン・ツェチィ)は八年前まで茶山新村で稲作に従事していた。豚も五頭飼ってやっと生活していた。ところが改革開放政策で、茶山新村が面する五山路の周辺にも、化成品工場や縫製工場が林立しはじめる。黄は人民解放軍から戻ると、母親と共に師範大学の学生や教師を相手に、目敏く餅菓子や西瓜を売りはじめた。八年前に貯金を注ぎ込んで「好新村酒家」を開業すると、公司の社員住宅や理工大学、研究所の職員が挙って日夜来店して大繁盛となる。深圸の工事現場で働いていた息子の沢青を呼び戻して五年後、黄は実質上の経営を沢青に任して半ば引退していた。
沢奇は遠く店の歓声を聞いていた。今日も朝から老妻の寝床の脇で、TVを見ながら西瓜の種を剥いている。妻の蔡玉は長年の無理が祟ってか、昨年から糖尿病を患っていた。二人の話題は決まっている。店に出す食材の善し悪しと沢青の嫁探し、そして市内で独り暮らしをしている娘の紘美(ホンマイ)のことだった。
「広州市開放北路867号…賑やかな所だ。このあたりは…一昨年に『広東チャイナ・ドリーム』の取材で行った中国大酒店の近くだよ」
「知っている所なら、明日にでも、行ってみてくださいよ」
「明日…明日か。生真面目な子だから驚かせては逆に…」
「今の月に入っている桂魚、一番美味しいから、持っていってくださいよ」
母である蔡玉は、丁度一年前に天河体育センターで働いていた娘を訪ねて、従業員寮で桂魚を調理してあげた夜を思い出していた。痩せてよく日焼けした娘、紘美は気丈で、幼い頃から党に忠誠を尽くすことを唱えて、父と兄の酒家の繁盛話に顔を曇らせていたが、さすがに清蒸した桂魚の身を頬張ると嬉しそうだった。今の市内は上から下まで日本の芸能人のファッションに収まった紘美の年代の娘達で溢れている。しかし老親が知る限りでは、紘美はいつも髪が短く濃緑の解放軍ズボンに水色の開襟シャツだ。その生真面目な娘が何故…。紘美はいつものようにボールの手入れをしながら、体を張って少年少女サッカーを指導していた。ところが暖かくなって新入部員も増えたというのに、新設された南越王墓博物館へ転勤を命じられたのである。
一徹で体を動かすことしか能がない娘が、博物館で何をやっているのだろうか。
翌日、二匹の桂魚を泳がせた酸素入りのビニール袋を持って、黄沢奇はタクシーに乗りこんだ。中山路から開放路に曲がると二匹が暴れはじめる。沢奇は息子がわざと雄同士を入れたのでは、と疑いはじめていた。
真新しい赤煉瓦風の正面の石段を上っていくと、解放軍の制服の青年がにこやかに招待票を買うように促した。沢奇は納得して石段を降りかけたが、彼の後ろで票を切っている娘と同い年くらいの女性に紘美のことを聞いてみる。南越王に殉死した夫人達の副葬品の部屋にいるらしい。沢奇がビニル袋の桂魚を見せると、紺のスカートに水色の開襟シャツを着た彼女は、笑いながら預かっておくと言ってくれた。沢奇はその笑顔と清潔さに嬉しくなって票を買いに走り下る。十二元の招待票の端を摘んでちぎってもらうと、人民解放軍に入隊したばかりの若き自分が急来して、二階三階へ通ずる大理石の階段を駆け上らんとしていた。
副葬品の部屋を次々に娘の姿を探して巡っていると、第一夫人の金印が目に飛び込んできた。あの部屋にいる。保存状態がよかった第二夫人の副葬品の陳列室、そこでは団体が説明を受けていた。その人垣の向こうを妻に似た面立ちが通る。沢奇は小走りながら娘の名を呼んだ。
紘美は相変わらず解放軍ズボンに開襟シャツの姿だったが、さらに痩せて髪を肩まで伸ばしていた。
「一緒にサッカーを子供に教えていた人には、奥さんがいる…分かっていたけれど、どうしようもなくて…」
妻子ある惚れてはいけない男に惚れて、体育センターから博物館への転勤も依願だと言う娘は、眩い屋上で足許ばかりを見つめている。父はかける言葉が見つからなくて、取った娘の手の女らしく浮かぶ静脈を撫でさすった。
沢奇は父親というものが、これほど娘を愛しがることに喜悦した。
俺の沢奇の奇は、あの女たらしだったが義を語ることを重ねていた親父が、少奇将軍の名から一字をとってくれたそうだ。そして俺の娘は、俺の母のように頑なで、俺の妻のように愚かな男に尽そうとしている。この国は走っている。この国は止まれない。
沢奇は涙まじりに小さく笑って、娘の解放軍ズボンの膝を強くさすった。
「人民解放軍に終わりはない」
子供たちは立派に育ってくれた。沢青は沢青でそれなりにやっている。唆されて深圸の証券取引に手を出しているが、親父と同じで、金儲けの次には女遊びしか能がない奴だから必ず失敗するだろう。そして老いぼれと言われようが、俺は俺の店を再建しなければ…この紘美を、この娘たちを、こういった女達を守らなければならないのだ。
「おまえのCDは止まらない」
「CDってコンパクト・ディスク?」
「CDはチャイナ・ドリームだよ。おまえのCDは始まったばかりだ」
大理石の階段を降りた沢奇は、ビニル袋の桂魚を紘美の前に掲げて大きく息を吐いた。
了
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