p.67ー68 モスクワ:ローエングリン ペーターは1980年ハンブルグ州立オペラのモスクワ公演に客演、ローエングリンのタイトルロールとして、ボリショイ劇場に初めて招かれた。私は他に重要な仕事があって、残念ながら行けなかったが、後で興味深い体験を話してくれた。 その時、ペーターはモスクワの中心部に泊まっていた。赤の広場のすぐそばの巨大なホテル・モスクワだ。このホテルは今はもう同じ形では残っていない。スターリン時代からのこのホテルはものすごく大きかったので、ペーターの部屋からフロントまで小走りに走って、およそ10分かかったそうだ。このスポーツ活動も部屋代に含まれていたわけだ。 すぐ近くのボリショイ劇場まで寒い中を少し歩くと、舞台入口のドアの前でちょっと待たされる。そこには守衛がいてロシア語で立ち入りを阻止する。ペーターは初めて歌うわけだし、モスクワも初めてだったので、守衛は彼を認めなかった。革ジャンにスニーカーに長髪というのも、全くオペラ歌手らしくなかった。ロシア語はしゃべれないから、今晩ここでリヒャルト・ワーグナーのローエングリンのタイトルロールを歌わなければならないのだと、身振り手振りで守衛に分からせようとした。けれども。入口に立ちふさがった男はそらっとぼけているのか、あるいは、本当に鈍いのか、平然と執拗に、ペーターを氷つくようなモスクワの寒さの中に立たせ続けた。 寒さに凍り付き、いらいらしつつ、苦境から救われる天才的な考えがひらめいた。リヒャルト・ワーグナーのオペラ「ローエングリン」の中の聖杯物語の出だし、つまり「あなたがたが近づくことができない、遠い国に、モンサルヴァートという城があって」と歌ったのだ。守衛は彼の歌を聴いて感動し、暖かい場所へと丁重にドアを開け、ペーターはその晩、遅刻することなく、聖杯物語を演じることができた。ロシア語ではなく、幸いなことにドイツ語で。
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目次
ヨッヘン・ロイシュナーによる序文
はじめに
ロンドン:魔弾の射手
バイロイト:ヴォルフガング・ワーグナー
パルジファル:ヘルベルト・フォン・カラヤン
ロリオ:ヴィッコ・フォン・ビューロウ
リヒャルト・ワーグナー:映画
シェーンロイト:城館
ペーターと広告
コルシカ:帆走
モスクワ:ローエングリン