現代人の誰もが「常識」「当たり前」だと思っていることが、
実は本当に最近、構築されたイデオロギーであることを知り、
新しい生き方、人間社会のあり方を考えざるを得ない
危機感に気づかされる一冊。
経済発展を目指すことことが現実的であり、
それ以外は理想論にすぎないという考え方にこそ、
本書で扱った多くの問題の核心がある。
だからこのタイトルなのだ。
だが、実際には、経済問題に限らず、
戦争と平和、安全保障、日本国憲法、環境危機など
多岐にわたって論じている。
以下、強烈な印象を残した部分を抜粋する。
こんな視点があったのか!
というより、こんなあるべき視点を見失った100年を過ごしてきたのか
と愕然とする本だと思う。
長い引用になるが、関心を持っていただき、
実際にこの本を手にとってみようと思ってもらえれば本望である。
P45
十七世紀イギリスのトマス・ホッブズが書いた『リヴァイアサン』という本(中略)つまり、国家がなければ「万人と万人の闘争」、個人と個人のあいだの暴力が支配する世の中になるだろう。だから、個人と個人の暴力の権利を政府に持たせれば、政府が代わりに社会の安全を保障してくれるだろうという期待です。(中略)非暴力の社会にはならないが、暴力は減る、相対的に安全になるはずだということです。
(中略)
この百年を振り返ってみるとどうだろうか、(中略)
結果ははっきりしています。
二十世紀ほど暴力によって殺された人間の数の多かった百年間は、人類の歴史にはありません。
これは先例のない、まったくの新記録です。そして、誰がもっとも多く人を殺しているかというと、個人ではないし、マフィアでもヤクザでもない。国家です。全然比べものにならない。ものすごい数の人を殺している。
ハワイ大学のランメルという学者の書いた『政府による死』という本があります。この人は、どれだけの人が国家によって殺されたか、という統計を集めている専門家です。
国家によって殺された人の数はこの百年間で二〇三、三一九、〇〇〇、つまり二億人にのぼる。これが彼の結論です。
P86
アメリカの大統領選挙に買ったトルーマンが、一九四九年一月二〇日の就任演説で「アメリカには新しい政策がある」と発表しました。
未開発の国々に対して技術的、経済的援助を行い、そして投資をして発展させる、そういう新しい政策でした。
(中略)
「発展」という言葉自体が、トルーマンの演説によって変えられた、作り直された言葉なのです。それ以前(中略)国全体を「発展させる」という言葉の使い方はなかった。(中略)
もう一つ重要なのは、発展されるというか、発展させられる国は、アメリカ合衆国ではなく、別の国であるということです。
(中略)
あらゆる変化を「発展」と呼ぶことはできない。一種の構造に従うような変化を「発展」と呼ぶのが正しい言葉の使い方です。
そうでない変化もありうるわけで、たとえば完全に人工的な変化は「発展」ではない。
P115
経済発展は、南北問題を解決するのではなく、原因のひとつなのです。(中略)もともとあった貧富の差を、経済発展が合理化した、ということです。合理化というのは、利益がとれるようなかたちに作り直した、という意味です。だから「貧困の近大化」は「貧困の合理化」と言い換えることができます。
そしてその貧富の差こそ経済発展の基本であって、原動力でもあります。トルーマン大統領の演説にも、その後の経済発展のイデオロギーのなかにも、経済発展によって貧乏な国の人たちが金持ちの国の人たちに追いつくことができる、いつか世界中の人たちが同じように豊かになるという、大義名分のようなものがあった。(中略)
半世紀経っても、それはそうなっていない。なろうとしていないのです。何が起こったかというと、確かに当時貧乏だった人たちが豊かになった場所があります。けれども、さらに貧乏になったところもあるわけです。(中略)
マイナス成長という言葉もまた、考えてみれば興味深い不思議な言葉です。それを考えるだけで、経済成長イデオロギーがどれだけ強いかということが分かります。成長がマイナスということは言葉としておかしい。人が縮んでいくのを、「マイナス伸びている」とは言わないでしょう。
P123
さらにもう一つ、四つ目の貧困がある。技術発展によって新しいニーズが作られ、そこから新しい種類の貧困が生まれるのです。(中略)
ところが、
二十世紀になると、人が想像したことのない、欲しいと思ったことのない物が、生産されるようになる。存在しなかったのだから欲しいとも思わなかった物を、作るようになった。それはたんに人々の趣味とか興味が変わったということだけではありません。
この新しい製品を買わなければちゃんとした生活ができない、というように社会そのものを作り直してきたということです。
P172
もっとも民主主義的な選挙はくじ引き
P192
ヨーロッパでは長い間、賃金労働は侮辱でした。自分の意志でやろうとした仕事ではなく、ただお金をもらうための労働というのは、非常に侮辱的なことであるという価値観がずっと続いてきました。「賃金奴隷」という言葉は、二十世紀の前半まで残っていました。
今はそれがもうほとんどなくなっている。今では、みんな賃金で勤めているから、そんな言葉は流行らなくなった。けれども、賃金をもらうためだけに働くということは奴隷制とそんなに変わらない、という価値観がヨーロッパにはずっとあったわけです。
だから、ヨーロッパでは労働者が喜んでみずからこの雇用制を選んだということは、歴史的な事実ではないのです。
P211
ここでも忘れてはならないのは、経済価値や政治権力と同じように、
文化は、文化庁や一握りの文化人が作るものではなく、民衆が作るものである、ということです。(中略)
今後、経済の交換価値(値段)以外の、
本来の物の価値を評価できる感性・美意識を中心にする文化が復活すれば、市場経済が持つ私たちに対する支配力はかなり弱まるでしょう。
P220
もちろん、抑圧があっても平気だ、という意味ではありません。
人間にはとても強い回復力があるということ、そして「経済発展」と人間の文化本来の発展とはどれだけ違うものか、ということが言いたいのです。
「植民地主義」→「帝国主義」→「経済発展論」→「グローバライゼーション」と名前を変えてきた弾圧の歴史のなかでも、人間の文化にはそれだけ粘り強い発展があった。それを考えるとき、文化の発展を抑えてきたその力が取り除かれたならば、世界中の文化がどれだけ多様な発展を復活させることができるか、想像できるはずです。
そういう意味で、
傷だらけの「放射能つきのユートピア」ではあっても、希望はあります。
しかしこれはすべて、もし間に合えばの話です。
そう、もし間に合えば、希望はあるかもしれないのだ。
『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』
C.ダグラス・ラミス/著
平凡社(平凡社ライブラリー)
2004年9月8日
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