『日と米(ひとこめ)』 爆笑問題 2007/09
著者は爆笑の太田光。フリーライターの田中聡が解説。 ペリー以降の日米関係を太田・田中(爆笑)の漫才形式でたどる本。
ペリー以前にも米国船が日本に来ている。モリソン号事件(1837)だ。アメリカの非武装商船モリソン号が日本人漂流者7人を日本に送還し、通商を行おうとしたものだったが、幕府の打払令によって浦賀と鹿児島で砲撃を受けてマカオに引き返した。
ペリーによる国書授与が行われた(1853)久里浜で、地元住民がアメリカの通訳に最初にした質問が、「アメリカ女性は色が白いか」だったと記録にある。
このときペリーが白旗が降伏を表すものであるとの国際的な意味を始めて伝えたという。
咸臨丸はオランダ製の船。初のアメリカ渡航で、提督が木村摂津守、艦長・勝海舟、他に福沢諭吉、ジョン万次郎。アメリカからブルック大尉以下11名も乗り込んだ。海は大しけで日本人クルーは万次郎以外は全く役に立たなかった。ブルックと万次郎はこの航海を通じて親友となった。日本人初の太平洋横断とされているが、アメリカ人乗員がいなければとてもサンフランシスコまでたどり着けなかった。
第二次大戦直後、マッカーサーは直接軍政を敷くつもりだった。日本軍の抵抗を予想していたためだ。しかし以外にも無抵抗だったため、間接統治に切り替えられた。
ベトナム戦争を進めたのはケネディ大統領。南のゴ・ディン・ジェム政権を後押しするが、後に軍事クーデターを承認しジェムを暗殺する。ベトナムで使ったナパーム弾の主原料は日本の火薬・油脂メーカーで生産された。
沖縄返還について。フィンガー5はパスポートを持って東京で仕事をしていた。
「プラザ合意」の会議のために、蔵相・竹下登はゴルフを装って渡米した。この合意に基づき、円買いドル売り介入と、円高デフレ対策で利下げが行われた。これがバブルの元となった。
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『日と米(ひとこめ)』
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