幽霊(3)
少しだけ、人間と言うか、命のからくりがわかってきた。お爺さんも言ってたけど、昏睡状態になると、身体から抜け出してしまうみたいだ。私の場合は薫と二人だから、私だけ、宙ぶらりんになってミニブタになったのかも知れない。何か不公平だわ。もしかしたら、極楽ってのはフェイズバンクの一つかも知れない。きっとご優待コースなんだわ。もっと色々知りたくなった。どうすればいいんだろう。取り敢えず暇だし、病院をくまなく廻ってみよう。きっと色々な人に出会えるかも知れない。
………ちょっと待って、人間だけなのかしら、動物だって植物だって命だし、それに………死に神とか、天使とか、子どもの頃から色んな話を聞いたわ。それって本当なのかしら。あぁ、また頭がぐるぐるしてきたわ。
私のいる重症病棟にはもう誰もいないようだし、いるとしたら、地下室とかそんなところに違いない。一気に床をすり抜けて地下室へ行こうと思ったけど、身体は床に立ったままで、生きている時と何も違わない。これじゃ階段を使うことになる。私は一応幽霊なのに、なんで階段を使わないと他の階へいけないのかしら。私の見たゴーストって言う映画では、扉をすり抜けたり、コインを動かしたりしてたじゃない。あれは全部嘘なのかしら、それとも私が下手くそなのかしら。
できないものは仕方が無い。諦めて、階段を一段一段踏みしめるように降りた。踏みしめてる感じは全然しないのに、身体はそんな風に動いているから、なんだか変な感じがする。ようやく地下一階まで来たけど、人の気配が全然しないし飾り気も無い。お化けが出そうで怖い。私が通ると、時々蛍光灯がチカチカするのも気味悪い。真っ直ぐ長い廊下を進むと、奥にドアが見えた。案の定、霊安室と書いてある。ここね、噂の霊安室。テレビドラマなんかでよく登場するところだわ。部屋の中に刑事とかがいて、熱心に遺体を見ているのね、そして若い刑事が事件の鍵になるような発見をするんだわ。でも、どうやって入ればいいのかしら。幽霊ならドアをすり抜けるけど、私にもできるかしら。階段を降りてきた自分には自信が無いけど、とにかくやってみようと思う。
ドアに向かって真っ直ぐ進み、そのままスリルと………できないわ。身体が無いのにどうして通れないのかしら。
「ハッハッハッ、下手くそ」
またあの笑い声だわ。
「わかってるわよ、信也君でしょ。勉強は終わったの?」
「姉ちゃんのことが気になったから探してたんだ。勉強はね、まだ途中だよ。でもね、国語の時間は終わって、身体の取り組みってやってるんだ。僕の身体はね、寝たきりだからさ、筋肉がどんどん弱くなって、おまけに変な風に縮んだりして身体が曲がってくるんだ。だから先生はね、それを食い止めようとして、一生懸命に縮んだところを伸ばしてくれたりしてくれるんだ。僕はいつも気持ちよくて眠ってしまうけどね。だから僕はいなくても、身体は勉強しているんだ。先生はいつも汗をかいて、僕の顔に汗をぽたりと落とすんだよ。ちょっと気持ち悪いけど我慢してる」
そう言って少年が笑った。
「信也君はここ通れるの?」
「大人はこれだからなぁ、偉そうに言う割には何にもわかっちゃいないよね」
「余計なこと言わないで教えなさいよ」
そう言うと、信也君は私の横に並んで立った。
「じゃ、やってみるね」
少年はそう言いながら、するりとドアの向こうに消え、また戻ってきた。
「ね、簡単だろ。姉ちゃんの番だよ」
確かに見ていると、何の苦労も無く、これぞ幽霊って感じがする。何がいけなかったんだろう、思い返してみるけど、何も思いつかない。でも、目の前で見ると、できるような気がする。ゆっくり前に進んでみた。だけど、身体がドアにぴったり張り付く感じがするだけで、そこから先はどうにも進めない。
「あぁ、どうして私はできないのよ。もうむかつく!」
信也君がお腹を抱えて笑っている。
「やっぱり思った通りだね。頭が固いんだよ。目の前に鉄のドアがあるって思ってるとね、何回やっても同じだよ。身体がある時の感覚を思い出してるからね。一度ね、頭の中を空っぽにして、目を閉じて歩いてみるといいよ。真っ直ぐな何にも無い道を思い出しながら歩くんだよ。そうやると、気がついたらドアの向こうに行ってるよ」
信也君が得意そうに教えてくれた。空っぽって言われてもよくわからない。でも、真っ直ぐな道を思い浮かべることならできるかも知れない。
「行くわよ」
そう言って、言われたように何も無い道を思い浮かべて歩いてみた。目の前にドアは見えない。数歩歩いたから通れたはずだ。ゆっくり目を開けると、目の前で見たことの無い生き物が私を見ている
「ギャー! イヤ!」
気がつくと、隣で信也君がまたお腹を抱えて笑っている。
「今の何よ! 目を開けたら化け物がいたわ。私はどこに行ったの?」
「姉ちゃんが行ったのはね、このドアの向こうだよ」
そう言うと信也君はまた笑った。きっと知っていたに違いない。
「なんで、ドアの向こうにあんなのがいるのよ。大人を騙して酷いじゃない」
「騙してなんかいないよ、だって通れたし、戻って来られたじゃない」
「どういうこと、教えて!」
信也君を睨みながら言った。
「あのね、この部屋にはね、誰も引き取りに来ない女の人がいるんだ。死んだのは三日前くらいだったかなぁ。警察の人も来て調べたけど、名前もわからないんだって。何でかわからないけど、僕たちみたいにはなれなかったんだよ。どうしてかなぁ」
信也君はそう言うと首を傾けて考えている。あんなのはホラー映画や、怪奇映画でも見たことが無い。覚えているのは気持ち悪い身体と異様な目だ。
「もうこんなの嫌よ、帰ろうよ」
そう言って信也君に背を向けると、
「僕たちが帰るとね、あの女の人、また独りぼっちで可哀想だよ」
と引き留めた。
「どうするの?」
「一緒に中に入ってね、話そうよ。きっと待ってると思うよ」
あんなところにもう一度入ろうなんてどうかしてるわ。絶対呪われて、地獄に落とされるに決まっている。
「私は嫌よ、あんた一人で行けばいいじゃない」
そう言って歩き始めた。今にもあの気持ち悪い生き物が、ドアをすり抜けて目の前に現れそうな気がしたからだ。
「姉ちゃん行かないで! 僕だけじゃ駄目なんだよ。見た感じは怖いけどね、でも僕とか姉ちゃんと同じって気がするんだ。だからね、話してみようよ。きっと待ってるんだよ」
信也君の泣きそうな声が私の足を止めた。
「何でそう思うの?」
「そんなのわからないよ。僕だって最初見た時は怖いって思ったけどね、でも、絶対悪い人じゃないと思う」
「………わかったわ。でも少しだけよ。怖くなったらすぐ出るわ」