幽霊(2)
若い男の先生は、ウクレレを丁寧にケースに入れると、背負ってきたリュックの中から一冊の本を取り出した。表紙に〈雨ニモマケズ〉と書いてあるのが読める。先生は信也君の耳もとで、話しかけるようにタイトルを教え、閉じた目の前に表紙を差し出して読み始めた。
「雨にもまけず、風にもまけず、雪にも夏の暑さにもまけぬ、丈夫なからだをもち、慾はなく、決して瞋らず、いつもしずかにわらっている。一日に玄米四合と、味噌と少しの野菜をたべ、あらゆることを、じぶんをかんじょうに入れずに、よくみききしわかり、そしてわすれず、野原の松の林の蔭の、小さな萱ぶきの小屋にいて、東に病気のこどもあれば、行って看病してやり、西につかれた母あれば、行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいといい、北にけんかやそしょうがあれば、つまらないからやめろといい、ひでりのときはなみだをながし、さむさのなつはおろおろあるき、みんなにでくのぼーとよばれ、ほめられもせず、くにもされず、そういうものに、わたしはなりたい。南無無辺行菩薩、南無上行菩薩、南無多宝如来、南無妙法蓮華経、南無釈迦牟尼仏、南無浄行菩薩、南無安立行菩薩………最後の方の言葉は先生にも難しくて説明できないけど、宮沢賢治の祈りのように思えるよ。きっとね、そんな風になりたいって心の底から願っていたと思うよ。先生も日本一のでくのぼーになりたいけど、ちょっと無理そうだわ。欲は深いし、いつも楽したいって思ってるしね」
先生はそう言って信也君に笑いかけた。信也君の口も目も手も足も、何一つ動かず、変化も無い。モニターの波形ですら変わらない。だけど、先生はまるで信也君と会話をしているように話しかけ、次の学習教材をリュックから取り出している。
信也君の貴重な時間を邪魔しないよう、私は病院内を見て回ることにした。自分の病室に戻っても、薫は替わってくれそうにないし、それなら、私の身体は薫に任せて、この世界がどうなっているのか色々確かめたい。それに、信也君みたいに、身体を抜け出している人が他にもいるかも知れない。
健康な時に知っていた世界が本当にちっぽけに思える。それに、人間というものが、なんだか奥深いものに思えてきた。人間と言うよりも、命って言うのかしら。それとも、霊魂ていうのかしら。私にはその違いもわからないし、命だって、何なのかわからない。もしも私の身体が死んだら、またあのおじさんのいる世界へ戻って、そして、フェイズバンクで色々経験して、好きな世界へ行けるのかしら。だとしたら、信也君は、ランクアップを選んで過酷な身体を選んできたことになる。確かに見た目は大変そうだけど、案外本人は、その過酷さを楽しんでいるのかも知れない。薫も、もしかしたらランクアップなのかしら。私にはとても真似できそうに無い。できれば、楽して苦労知らずがいいと思う。特別ご優待のポスターを思い出した。
私のいる階は重病患者ばかりのようだ。廊下を歩いているのはナースかドクターで、患者らしき人は見かけない。患者の半数は集中治療室にいる。そうでない人も、枕元には沢山の医療機器が置いてある。あまり人の話し声がせず、聞こえるのは無機質な機械音と、時折聞こえる耳障りな警告音くらいだ。
もうこの階には、私と話せる人はいないようだ。誰か暇つぶしに付き合ってくれそうな人はいないかしら。テレビによく出ている霊感の強い人は、どこにでも霊体を見つけてたじゃない。もっといるはずだわ。そう思い、目を凝らすようにして、天井から床まで注意深く眺めてみた。よく見ると、天井の少し暗いところがシミのように見える。何かと思って真下まで行って見上げた。
「気がついたか」
「えぇ、誰かいるの?」
天井のシミをよく見ると、痩せこけた老人が、背中を天井に張りつけるようにして私を見下ろしている。
「そんなところで何をしているの?」
天井を見上げながら訊いた。
「昨日は昏睡状態になって、あんたのように病院をうろつき廻ってたが、今日はなんだか身体が軽くなって、降りられんようになったんじゃ。影も薄くなってきた。そろそろかも知れん」
「そろそろって?」
「ご臨終じゃ」
老人はそう言って笑った。
「辛くないの?」
「ハッハッ、全然じゃ。昏睡状態になる前は少し辛かったがのう、今は青年に戻ったみたいだわ。まぁ、見た目には苦しそうでな、婆さんがわしの側で泣いとる。ところであんたは、どうしたんじゃ」
老人は皺くちゃな顔で訊いた。今まで体験したことをかいつまんで話すと、フムフムと頷きながら聞いている。
「なるほど、それじゃ、わしもそのエイズ番に行くのか。極楽とは少し違うみたいじゃな」
老人は、死んだら極楽に行けると思っていたようだ。
「極楽って、どんなところなの?」
「わしも知らん。だけど、人間は死んだら極楽浄土か、地獄に行くと決まっとるはずじゃ。わしは、悪いことは何にもしとらんから、極楽だと信じとった。そんな、エイズ番とか言う、妙なところは嫌じゃな。何とかならんのか。あんたから、かけおうてもらえんか」
老人は、天井の隅から首を伸ばすようにして言った。
「ごめんなさい、私は何にもできないのよ。だから、ブタになったりしたのよ。今だって、身体に戻りたくても戻れないし、急にブタになるかも知れないの」
老人は急に黙り込んで考えている。
「あんたは、よっぽど因果な人じゃな。ブタになるっちゅうのは、あんたが畜生とおんなじだからじゃな。人間に生まれても、食って寝て、食って寝てばっかりしてたんじゃな。だからブタになるんじゃ。可哀想になぁ」
老人はそう言うと影が薄くなって消えた。近くの病室を覗くと、医者や看護師に囲まれたベッドがあり、その枕元で老婆が泣いている。老人の顔を覗き込むと、苦しんだ様子は見られず、安らかな表情に見える。本当に極楽浄土というところに行ったのかも知れない。間違っても私のようにブタになったりはしていないだろうと思う。