幽霊(1)
目の前にぼんやりした何かが見え始めた。奴隷を体験した時は、いきなり俊介の胸板が目の前に飛び込んできたが、今度は違うようだ。何か白いものが目の前にあることがわかる。ゆっくりねじを締め込むように焦点を調節した。
私なの? そうだわ、目の前に見えるのは私の顔に間違いないわ。でも、顔の筋肉がだらりと緩んでブスだわ。こんな顔、誰にも見られたくない。身体から何本ものチューブが機械に繋がっている。私が私の目の前に横たわっている。じゃぁ、私はどこにいるの? どういうことなの?
「一美? 戻ってきたのね。ごめんね、知らせる時間が無かったのよ。急いで戻らないと危なかったの」
薫の声が聞こえる。
「どういうことなの?」
「私たちの身体が死にそうだったの。だから大急ぎで戻って頑張ったわ。何とか持ち直してね、この分なら脳死にならなくて済みそうよ、安心していいわ」
私の身体は、機械の動きに合わせて胸を上下しているけど、眠ったままで表情は変わらない。薫の声だけが耳の奥に響いてくる。身体が無事なのは嬉しいけど、私は宙ぶらりんでなんだか居心地が悪い。
「お礼は言うけど、なんか変じゃない。私はどうすればいいの?」
なんだか蚊帳の外みたいで、私の居場所が無い。
「そうねぇ、しばらくそのままでいるしか無いのよ。前とは状況が違ってきてね、一緒にいることが難しくなってきたわ。昔なら、一美が眠っている間に私が目覚めてこの身体を使わせて貰ったけど、そんな風に戻れるかどうかわからないの。今はとにかくこの身体を回復させることが一番大事なの、わかるでしょう。だから今は私に任せて頂戴。悪いようにはしないわ」
「じゃぁ、私はこのままってこと?」
「そうねぇ、取り敢えずそうとしか言えないわね。今の一美は要するに幽霊とか霊魂とか、そういった種類の存在なのね。誰からも見えないわ。時々霊感の鋭い人とか、動物には見えると思うけど、普通の人からは見えないの。そのままでも不自由は無いと思うけど、居心地はあまあまり良くないと思う。それにね、あまりその状態が長く続くと、身体に戻りにくくなるわ。だから、時々肉体の感覚を思い出しておいた方がいいと思う。覚えているでしょ、絵里子のミニブタがいいわ。居心地が悪くなったらミニブタの身体を借りて休んでいてね、身体が回復したら考えましょう」
薫は、上から目線で、私に指示するように言った。このまま、薫の言う通りにしていると、二度と自分の身体に戻れないような気がしてきた。
「そんなのずるいわ。もう二度と絵里子のミニブタなんてご免よ。私の身体は私が何とかするから今すぐ替わって頂戴、お願いよ」
「一美には無理だわ、替わったらすぐに死んでしまう。今はね、それどころじゃないの」
「薫! 薫! 待って!」
それっきり薫は何も言わなくなった。どうして私じゃ無理なのよ。ずっと私の身体だったのよ、こんな空気みたいな身体じゃ嫌だわ。もう、何も言っても薫は返事をしてくれなくなった。天井から自分を見下ろしてるなんて変。ちゃんと床に足を着いて動きたいわ。どうすればいいのかしら。
空中で平泳ぎのように藻掻いてみたり、足をバタバタしてみたり、イメージだけど、思いつくことは全部やってみた。だけど、空中に浮かぶ凧のように、多少は動く感じはあるけど、自分を見下ろすポジションに変化は無い。いい加減うんざりしてきた。
「ハッハッハッ、下手くそ!」
私を笑う声が聞こえた。
「誰よ、私を馬鹿にするのは誰なの!」
辺りを見廻すと、病室の入り口に立っている少年を見つけた。
「私が見えるの?」
そう言うと、背の低い少年は私を見上げながら中に入ってきた。
「あぁ、見えるよ。そんなところにいるってことは、死んじゃったの?」
「死んでません、今は昏睡状態なの。色々複雑な事情があって、こうしているだけなの」
「へぇー、不思議だなぁ、死んでないのに浮かんでいる人見たの初めてだよ」
少年は不思議そうに私を見上げている。
「あんたは誰なの?」
「隣の病室の、河原信也。六年生だけど、ほとんど学校行ってない。看護師さんが付き添ってくれて入学式に行っただけだよ。後はずっとこの病院にいる。でも時々先生が来てくれて勉強教えてくれるよ」
口は悪そうだけど、丸い顔にクリクリした目が可愛い。
「でも、どこも悪そうに無いけど、なんでここにいるの?」
「姉ちゃんと一緒だよ、意識レベルが低いってお医者さんが言ってた」
信也君はそう言って笑った。
「じゃぁ、君の身体は隣の部屋にいるのね。もう何がどうなっているんだか、とにかく変よ、あり得ないわ」
「おいでよ、僕に会わせてあげる。そうすればわかるよ」
少年はそう言うと、私においでおいでをしている。
「どうすればいいのよ、私はここから動けないわ」
先ほどのように、手足があるつもりで動かしてみたけどやっぱり動けない。
「ハッハッハッ、まだわかんないの? あのね、手足を使っちゃ駄目。歩いてたことを思い出すだけでいいんだよ」
薫も思い出せって言ってたけど、ここでも思い出すのね。目を閉じたつもりで、床に立つことを思い浮かべた。
「あら、ほんとだわ、私立ってるよね」
「簡単だろ、こっちへおいでよ」
言われるまま、少年の後を付いて歩いた。廊下にでると、目の前にナースステーションが見え、何人かの看護師がモニターをチェックしたり、キーボードを叩いている。誰も私たちに気づいた様子は無く忙しそうだ。私たちの部屋はナースステーションに一番近く、集中管理された個室のようだ。隣の部屋の前に立つと、入り口の横に、河原信也と書いたネームプレートが見えた。ゆっくり部屋に入ると、目の前のベッドには、人工呼吸器を装着して眠っている少年がいる。枕元には沢山の機械が並び、腕や足とチューブで繋がっている。モニターには幾つかの波形と数値が見える。
「随分大変そうね」
隣に立って自分の身体を眺めている信也君に言った。
「そうでもないよ、もう慣れたし、こうやって自由に動けることがわかったら結構面白いよ。それに僕はね、ランクアップだから」
少年は嬉しそうに言った。
「ラックアップって、もしかしたらフェイズバンクのこと?」
少年の顔を覗き込みながら訊くと、
「姉ちゃんも知っているの? それじゃ、あの変なおじさんの言うことは当たってるのかなぁ」
「私はフェイズバンクから来たのよ、その変なおじさんってね、何か派手な服着てたでしょ」
「そうだよ、初めて見た時ね、僕笑っちゃった。あ、学校の先生が来たから戻るね」
そう言うと隣にいた少年の姿が消え、入れ替わるように、若い男の人がニコニコしながら入ってきた。私の身体は見えていないようで、真っ直ぐ私に向かって歩いてくる。私の身体とぶつかりそうな気がして、慌ててベッドの反対側に廻った。
「こんにちは、来たよ。今日の調子はどうかな」
若い男はそう言って、モニターの数値を見ながら少年の手を握った。少年は相変わらず眠ったままで何の反応も無い。しばらく見ていると、その若い先生は、信也君の耳もとで名前を呼び、持ってきたウクレレを弾きながら歌を聴かせ始めた。信也君には聞こえているのだろうか、でも、先生はそんなことは気にもせず、熱心に歌っている。お世辞にも上手とは言えないし、ウクレレも時々変な音を出している。
「信也君、聞こえているの?」
信也君は眠っているし、聞こえているようには見えない。
「あ、聞こえているよ。身体はねぇ、どうにもならないけどはっきり聞こえているんだ。音楽の先生じゃないから、下手なのは仕方がないよ。でもね、この歌を聴くとなんだか嬉しくなるんだよね。先生が自分で作った歌なんだ。歌い終わったらいつもね、僕はありがとうって言ってるけど、先生には聞こえてないと思う。だってね、時々小さな溜め息が聞こえることがあるんだ」
少し寂しそうに言った。
「信也君の声が聞こえたらきっと喜ぶね。ところで先生ってさぁ、家庭教師なの?」
「違うよ、学校の先生だよ」
「学校って、普通の学校の先生って無理でしょう。病院に教えに来てくれる学校なんて初耳だわ」
「普通の学校じゃ無理だよ。特別支援学校の先生なんだ」
「特別支援学校って、何?」
そんな学校、今まで聞いたことも無い。
「僕が入学した頃はね、養護学校って言ってた。最近名前が変わったんだけど、僕もよく知らなかった。スクールバスとかで、学校に通うんだけど、僕みたいにずっと入院していたり、家から出ることのできない生徒はね、先生が来てくれるんだ。訪問学級とか言うみたいだよ。僕は来年卒業だけどね、入学式みたいには行けそうに無いから、きっとね、ここで卒業式をしてくれると思う。この前ね、先生がそんな話を看護師さんと話してた。あ、宮沢賢治が始まっちゃう。ちゃんと聞きたいからもう黙るね」
最後の方は早口になって静かになった。聴き耳を立てている伸也君の顔を想像すると、少し可愛らしく思える。