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ガラテヤの信徒への手紙 6章1~10節

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<互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。(2節)> パン切れを受け取るとユダはすぐ夜の闇の中に出て行った。主イエスは「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。」と弟子たちに告げられた。 そして「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と言われた。 パウロが人々に「全うすることです」と求める「キリストの律法」とは、主イエスが人々を愛されたように、人々が互いに愛し合う事であった。そのことができるのは、神によって自分が無条件に愛され、神の霊を受けているからであって、神に認められたいからではないといった。 6章に入ると「信仰に基づいた助け合い」と題され、「教会の中で誰かが何かの罪に陥ったなら、“霊”に満ちているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」とパウロは勧め、信仰は個々の問題ではなく、互いに歩む群れであることが示される。 イースト菌はわずかな量でもパン生地を大きく膨らませる。群れに侵入した小さな出来事が教会を大きく揺るがしていた。「あなたがたを惑わす者は誰であろうと裁きを受けます」と厳しい言葉を与えつつ、罪に陥った者には柔和な心で・・・と、パウロは難しい注文をつける。 群れとして歩む教会は互いの重荷を担うことが求められる。沖縄に行ったとき、基地として占領下にあるような沖縄の人々の苦しみや痛みを聞いた。その時は怒りに同調したが、その痛みをずっと自分の背に負うことは出来ていないし、福島の原発被害者の方々の重荷も担えていない。 人の荷を担うことばかり考えていたが、パウロは「自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対して誇ることができないでしょう」と忠告している。 「わたしたちはここで、自分がもしかすると相手の重荷になっていはしないか想像してみることは大切でしょう。自分が担われ、支えられていたという驚くべき発見と感謝、それゆえ自分のあり方を深く省みることが、逆に他者に与えていた重荷を軽くすることになるのです。」と渡辺牧師は説かれている。 「人に迷惑をかけない」と偉そうに言っていたが、知らないところで誰かが、わたしのため重荷を負ってくれているらしい。冷静になって「自分の行いを吟味」するのは相当難しい。

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