★ あらすじ
差別語糾弾運動に違和感を覚えた著者は、言語学の観点からこの課題を問いなおすことを思い立つ。その運動は、ある大学教授が教授会を批判するのに「教授会は特殊部落である」と雑誌に書いたことがきっかけで起こった。雑誌は自主回収となる。それ以降、メディアは「差別用語集」を作り、"対応"するようになる。
著者は一旦、問題を広げ、「言語狩りは過去からあった。中央集権政府の方言撲滅運動である」とし、ここに二つの運動の根幹が同じであるとした。本来、言葉は人々のものであり、特定のエリートが決めるものではない。差別語を糾弾するのは人々から言語の自由を奪うことに繋がる。
差別語とされた個別の言葉についても、再考していく。例えば、「カタテオチ」は「片手の欠落」を意味するのではなく、「半端な手落ち」である。そもそも、手の損失状態を「手が落ちる」とは言わず、「手がない」と言われるので、「片手が落ちる」との解釈は無理がある、と。
「トサツ」は、そもそも家畜の解体などしたことのない役人が作った言葉で、本来は違う言葉が使われていたはず。そちらの方がより人々の文化に根付いたものだった。
とはいえ、言語は人々のもの。そこで使われ方も、意味も変わって行くもの。語源だけで議論しても意味がなく、現在、どのように使われ、感じられているかが問題。その上で差別語を考えるべきだ。
★ 目次
- 差別語の発見
- 言語ニヒリズムの邪道
- ことばは人間が作ったものだから人間が変えられる
- 蔑視語と差別語
- サベツ語糾弾が言語体系にもたらす結果について
- 「オンナ」で考える―サベツ語と語彙の体系性
- 「片目」で考える―欠損を表わすための専用形
- ハゲとメクラ―欠如詞(privativa)の概念を検討する
- 略語のサベツ効果について―「北鮮」から「ヤラハタ」まで
- 「トサツ」についての予備的考察〔ほか〕
★ 感想
後書きにある通り、言語学からはいる差別(語)入門とも言える一冊。いずれにせよ、出版物として世に出すのをタブー視する(忌避する)傾向が強い内容だが、真っ向からそれを捉えて論じている。もちろん、著者は差別を容認している訳ではない。差別糾弾の仕方として差別語狩りに疑義を唱えているのだ。その主張はとても説得力があり、分かり易い。
私自身、色々と勘違いしていたんだと言うことにも気付かされた。「カタテオチ」の例もその一つ。そもそもが違う語源だったのに、差別語だとレッテルを貼られて使われなくなってきた言葉。確かに、それはこの言葉に対しての差別であり、失敬な話だ。もっと勉強せねばならないと痛感した。
と言いつつ、これらの言葉をここでブログに書くのにちょっとためらいを感じているのも嘘ではない。差別語狩りの流れに染まっているのだろうか、私自身も。差別の問題は、言葉にその責任を負わせるのではなく、その言葉が使われるコンテクストの話だ。そしてそのコンテクストとはつまり、それを語る人の心の持ちようであり、差別意識はそこにあるのだ。
なかなか刺激的な一冊ですが、読むべき作品でしょう。おすすめします。