「これでも詩かよ」第24番&ある晴れた日に第155回&照る日曇る日第621回
全国の学友諸君、詩集に栞が付いていないのは、いっきに最後まで読んでしまうか、それとも気が向いたときにどこかの頁をえいやっと開くのが、詩を読むときの暗黙のならわしだからということを知ってたかい?
まあそれはどうでもいいんだけど、遅まきながらわが敬愛する鈴木志郎康氏の詩集「ペチャブル詩人」を読ませて頂きました。
まずは不可思議な題名がとても気になりますね。「ペチャブル」というのは、なんぞや? 「ペチャブル詩人」とは、いったいぜんたいどういう詩人なんだろう?
私はなんか平成の御代に健気に生きる老残のプチブル詩人、のことか、あるいはまた、処女プアプアのペチャパイがブルブル震えるポルノっぽいイメージなんかをかんがえていたんだけど、台所に立つ詩人の手からリノリュウムの床に滑り落ちたコンニャクが、ペチャブルル、ペチャブルルと震えたので、ここから採られた、とは知らなんだ。
いやあ想定外、想定外。
それなら「ペチャブル」じゃなく「ペチャブルル詩人」にすれば良さそうなものだけど、「ペチャブルル詩人」はいかにも語呂が悪い。そこで一字カットして「ペチャブル詩人」になったのではないでしょうか、ねえ志郎康さん?
私はここでどうしても「鈴木さん」ではなく、「志郎康さん」と、なれなれしくファーストネームで呼びかけてみたい衝動に駆られる。初対面でチュトワイエで話すが如き極私的無作法をお許しあれと願いつつ。
けれども見事な装丁と繊細なレイアウトで仕上げられたこの詩集の、どの頁を開いてどの詩を読んでも、志郎康さんの「心の欲するところに従って矩を超えない」融通無碍の境地に感嘆のほかはなく、
(例えば「和人さんと美弥子さんの祝婚の詩」なんか最高だなあ。こんな言葉で結婚を祝ってもらえたら、と、私は羨ましくて羨ましくて、思わず涙が出そうになる)
その簡にして熟した言葉たちが胸にまっしぐらに飛んできて、私たちのハートにやわらかく突き刺さるのです。
そんな詩人を、天下無敵の親和力を備えた七十八歳の愛すべきキューピッド、と申し上げても、怒りませんよね、志郎康さん?
エジプトやシリアの人が死にゆく日湘南の海で泳いでいるわたし 蝶人
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