大正から昭和にかけて、新潟県の旧家・田乃内家を舞台に盲目の少女・烈の半生を描いた“ドラマ”です。宮尾登美子には、土佐の女衒の家に嫁いだ女性の、血の繋がらない娘との関係を描いた『櫂』がありますが、ほぼ同じパターンです。
『櫂』:岩伍(夫)、 喜和(妻、主人公)、綾子(岩伍の娘)
『蔵』:意造(主人)、佐穂(義妹)、 烈(主人公、意造の娘)
『蔵』:意造(主人)、佐穂(義妹)、 烈(主人公、意造の娘)
共通しているのは、血の繋がらない「母と子の関係」と家庭内のゴタゴタ。『櫂』と異なるのは、『蔵』では主人公烈を育てるのは叔母の佐穂であり、意造、佐穂、烈の関係を昇華させるために「酒造り」をもってきた所でしょうか。『櫂』に比べると『蔵』は、口当たりのよい小説となっています。
『櫂』では岩伍の存在は希薄でしたが(代わりに岩伍を主人公とした『岩伍覚え書』があります)、『蔵』では意造が活躍?します。見方によっては、旧民法下で、家庭で強大な権限を持つ戸主であり、越後有数の地主で酒造家の意造の物語とも言えます。
【烈】
新潟県の旧家・田乃内家の一人娘で、美貌で聡明なこの物語のヒロイン。眼に障害を持って生まれ、14歳?で失明します。障害者として家の奥に埋もれて一生を送ることを拒否し、障害を克服して家業の造り酒屋を再興します。
烈の父親で田乃内家の当主。田乃内家は農地2,220町歩を有する地主で、「冬麗」というブランドを持つ蔵元でもあります。当主の意造は東京帝国大学の工学部を出て地元に帰り、家督を相続し地主兼蔵元におさまっています。
妻に迎えた賀穂は病弱で、生まれた8人の子供は4歳の声も聞かないうちに次々と亡くなるという不幸にに見まわれ、9人目の娘烈は目に障害を持って生まれます。病弱の母親賀穂に代わって烈を育てるため妹佐穂が迎えられます。
病弱の賀穂が亡くなり、後添いとして若い芸者“せき”を迎えます。やがて長男が生まれますが、事故で亡くなり、追い打ちをかけるように病に倒れ半身不随となります。打ち続く不幸によって気力の萎えた意造は、造り酒屋の廃業を決意します。
意造の妻で烈の母。烈の眼の平癒祈願のため巡礼にでかけ亡くなります。賀穂は、運命を予感しているかのように、自分亡き後、妹・佐穂を意造の後添いにするよう遺言を残します。
賀穂の妹。病弱な姉に代わって幼い烈の母親代わりを勤め婚期を逸します。賀穂亡き後、烈の母親であるとともに、田乃内家の“奥”を取り仕切ります。密かに意造を慕っていますが、“せき”の登場によってその夢も打ち砕かれます。
本書は、新聞連載中から大きな反響を生み、TVドラマ化、映画化されていますが、人気の秘密はその辺りかもしれません。
“せき”が意造以外の男の子供を妊り、その対処をについて烈、意造、佐穂、せきの4人で話し合う場面です。たぶん、本書を象徴するシーンです。
夫の子でない子を妊っている若い妻(せき)、身二つになればこの家を去る運命が待っているのにそしらぬ顔で対している半身不随の夫(意造)、目の不自由な娘(烈)は、その継母とともに一人の男を愛しているのではないかという猜疑心に悩み、三人を眺めている佐穂自身はいまだ生娘のまま、この家の奥のおっかさま同様となっている。
下線部分はちょっと分かりにくいですが、烈は、せきのお腹の子供の父親は涼太ではないかと疑っている、という意味です。
もうひとつ、春の訪れとともに雪解け水の伏流水が枕の下を流れる、という表現があるのですが、越後の風土が希薄です。会話はすべて越後弁なのでしょうが、この方言を知らない読者には、舞台が「越後」であるという認識は薄いのではないでしょうか(『櫂』の方は、作家の故郷ですから、風土の描写が小説のひとつの魅力となっています)。
100円の古本で読んだのですが、抜群のコストパフォーマンスでした(笑。