<無謀なる366冊 vol.54>
水島英巳詩集『小さなものの眠り』 感想もしくは「私的読書ノート」
a(章)を巡って
いろいろな場所、土地、ウミ、ソラ、道、「小さなものの眠り」が登場する、あるいはそのように思える。ずば抜けるものはそこにはなく、長い時間をくぐり抜けた優しさと少しのあきらめ、マングローブの林、水と水が出会うところ、ここはどこだと云えば「島尾敏雄の場所へ」なのだと云う。
「いつもはこんな体育会系のようなこと嫌いなのに」(『マングローブの林』)
そんなフレーズがいつまでも残って、授業に取り残された子どものようになっては行けないと付いてゆく。どうしてそこにゆくのだろう、そんな行動をとるのだろう。語り手は「場所へ」向かい、私は中々その舟に乗れない。また別のことを考えている。(授業中なのに)もう、まだ。
どうしたら良いのだろう映画で以前視た『詩の棘の』印象を呼び起こす、と同時にやっと少しずつことばの舟が私を南の島に連れてゆく。それでも気がつけばすぐに部屋のなかにいる。
去年私たちは娘のいるベルリンにおっかなびっくり国際空港の乗り継ぎをしてたどり着き、翌日森鴎外記念館に行き森鴎外関連本の書架のまえで途方に暮れた。娘は舞姫の漫画を読んでいた。私はデスクに座り写真を撮らせた。
「「鮎、君が人間なら、留まることと出発のどちらを選ぶ?」/どちらも、と笑いながら君は答える。選ぶのも選ばないのも同じ、/ここで生きるものたちにとっては、と。」(『マングローブの林』)
さて、どこへ行こうか。私がもしも人間なら、留まることと出発のどちらを選ぼうか。いいえ、そうではなく島尾敏雄を読んでみようか、夢日記のことについて誰かが云っていたし、奄美と云えば田中一村しか知らなかった。東京からベルリンへ、森鴎外から田中一村へ、一村から島尾敏雄へ。誰かで良いし、ここにいない誰かで充分良いわけです。何かをつなぐもの、昔読んだ少女漫画、あるいは赤いソノシートなど。『詩の棘』を注文。
検索し『ドルチェ-優しく―映像と言語、新たな出会い/A.ソクーロフ』を注文する。感想を書くため、批評するため、感謝するため。サリンジャーを読むのは止めにした。ナボコフも。エミリ・ディキンソンの詩集は注文した。新井豊美は停まったままだ。
「フロストの一瞥は悲しみを含んでいる。」
「でも、この生には凝視の時間が許されているわけではないのだ。」
(『かつて そのとき なにかが 新井豊美の場所へ』)
フロストに関しては、 2012 年 9 月 1 日、池袋・ルノアール会議室で、水島英巳氏を講師に迎えて、 midnight poetry lounge vol.11「ロバート・フロストの詩を読む」が開かれたわけだったが私は参加できずに残念だった。そのままにしてあった、midnight poetry lounge vol.11「ロバート・フロストの詩を読む」レポートをプリントアウトして読んだ、大変為になった。
「パッシングする(通過)、してゆく、すべて。でもそれは「終わり」ではない。」(『かつて、そのとき、何かが 新井豊美の場所へ』)
フロストの悲しみとはなにか、水島英巳はそれを知っていて、私はそれを知らない。悲しみを知るとはなにか。
ジョヴァンニ・ヴェルガは、イタリアの小説家である。「ヴェリズモ」と称される19世紀イタリア・リアリズム文芸運動の代表的作家の一人として知られる。シチリア島を舞台として、市井の人々の生活を描いた一連の著作、特に後にピエトロ・マスカーニ作曲の同名のオペラにもなった短編『カヴァレリア・ルスティカーナ』で有名である。(ウィキペディアより)
「さびれた漁港の高台に、その人は住み/どこにも属さず、属さないということを/誇りもせず、岬について、海について、島について/遠近と明暗を測る燈台の灯ような詩を書き続けた。」(垣『根は生きている』)
私は初めて知った。いえまだ知らない。そして、詩は書き続けられる。
「ぼくの心を揺らす。/垣根は生きている、」(『垣根は生きている』)
カヴァフィスは、ギリシャの詩人。官吏として働きながら書きためた彼の詩は、20世紀における代表的な文学作品の一つであると見なされている。カヴァフィスの作品はギリシャの文学、歴史上の人物を簡潔だが暗示を含んだ文体で描いている。不確実な未来、官能的な喜び、ホモセクシャル、故郷に対するノスタルジアなどがテーマとなっている。(ウィキペディアより)関係ないがこのWikipediaの文体もなにか不気味である。
「朝焼けの二重の色、紫と青がまざりあっている空/立ち去ってゆく夜の背中/やってくる朝の名前』」(『同じ空間で カヴァフィスの場所へ』)美しいです。しかし、
「深い沈黙/「そうでなければならない」/欠如を何一つ満たしてはならない。かすかに傾いて・・・・・・」(『同じ空間で カヴァフィスの場所』)
わからない。この場所はどこなのか。行ったことがなければわからないのか。当たり前のことだとすると、読んだことのない美しさは永遠にわからない。「同じ空間」とはどこか。
b(章)を巡って
美しい詩編がつらなる。『ふるえるもの』、美しい詩、カワセミ、モンスター、
「少女は春分の空の翳りを/自分のなかの微熱のように感じる/誘われてゆく小さな身」(『ふるえるもの』)
そして、「マムレシュの羊飼いの少女」、マラムレシュはルーマニアの県、木造聖堂が世界遺産として登録されているそうだ。
遠い。。
美しいものは遠いのだ。
メタセコニアの巨木の由来する並木の物語、ではない。
「少女とカワセミと/あなたは ふるえながら棲(とま)っている」(『ふるえるもの』)
だから、分かったかい?ここがどこだって、と。そうじゃない。
『星空』も奇麗な詩だ。
「若い人と飲んだ夜/高架のホームから見る国立がとってもきれい。」(『星空』)
このきれいは私にもわかる。奇麗だけではないな、誰かの匂いがする。星空ではなく人の。二度目に読んだ付箋のメモに「いつまでも残っていたかった~」の部分の抜き書きがある。今はなぜかわからない。次の頁の付箋には「「わたしたち」の解かれない不死/冬の星座」とまた写している、今はなぜかわからない。奇麗な詩はわからなくなる。
ミシェル・レリスの『手淫論』と云うものがあるのかどうか知らない。ボブ・マーリーの『SmallAxe』はYouTubeで聴いて和訳も探した。
何だか知らないことばかりで調べてばかりいる。それでも水島英巳の節回しにゆっくりとのせられてゆく。
「小さな斧に研ぎあげる/ときどき己を切り倒す/それが正しいとき、悪夢から出てゆく道が/はるか遠くに敷かれている」(『小さなものの眠り』)
c(章)を巡って
私の好きな詩のかたちはどちらかと云えばここにあるような気がする。『湖の島』三行の散文体で十連、三十行。『Stranger in Paradise』二行か三行か一行の連が十七連の散文体。『Deceptive Cadence(終わりではない)三行の連がほぼ奇麗に十六連(一連だけ四行)。
「月に映る地球のキャベツ畑』「オハイオ』『さびしい秋』『彼は世捨て人。」『その石を見よ」「湖の島のイニスフリー」「楽園のよそ者」
「せつない千枚田」「神津島」「カーボ・ベルデという島」「それは百回聞いた」「倦まない人たち、しかしゆっくりとして悲しげだ」「北極のシロクマさん」「天生峠(あまもとうげ)は青空に雨が降る」「真っ白に滅び去るまで」「歌は自らを歌うだけだ」「イブラヒムやオマーラやルーベン」「月の浜辺に寝そべって」「能登の九十九湾」「片倉城址」「西脇順三郎に似ている」「きみの柔らかな肢体のくぼみ」そして、「永遠の次の「一日」」。
ここまで来ると根気のせいもあるし、知らない地名や単語や人の名前を気にせずに読み進むことが出来る。なんだか始めて旅の風に撫ぜられているような気さえしてくる。
うまくいうことは出来ないのだけれど風、岬、海、川、島、湖、山、峠、道、都会、そこに流れる時間を越えた歌のなにか悲しげな力は、このc(章)の三作品が一番に何かを捉えられているような気がする。(気がするだけなので確かなことはわからない。)捉えられているものはなにか、読者か。すこし大げさなのでもとい、それは「私」ということにしておく。
ノート3を巡って
巻末の『ノート3』にこう書かれてある。
「八王子の空は家々にくぎられて狭く感じる。颱風はもう過ぎたのだろうか、まだこれからなのか。風は強い。歩きながら考えたことがある。場所と主題というようなこと。「ある主題のために、場所を拉致するのではなく、きみにとっての主題や問題を、今ここの場所に置いてみることのほうが大切なのではないか」」(『ノート3』)
「ある主題のために、場所を~」から始まる文に付いている「」はどんな意味を持つのだろう。作者以外の誰かのことばなのだろうか、地の文と何を際立たせようとしているのか。誰に、誰が云っているのだろう。『ノート3』もあくまで作品であるからあんまり関係ないのか、引用であればそこで終わるか。私だけがわからないのか、それとも
この詩集の時間の最初に場所はある。そこに何かが建っている、何かが住んでいる、誰かが待っている。誰かとはあなたなのか私なのか、私は
その場所で時間のなかに眼を閉じて、場所に呼吸し時間に少し目配せをして、何かと顔を見合わせ、信号を送り合い抱擁し、嘆き、ののしり、通り過ぎ、忘れ、場所は忘れ場所は忘れない。
「まず場所の場所性ということを第一にし、そこに君の主体や問題などをありのままに置いてみること、そこから出発したらどうか、などと考えながら歩いていた。」(『ノート3』)
場所の場所性と云うのはそのようなことなのだろうか。君の(ぼくの、私の、あなたの、かれの)主体性の問題などをありのままに置いてみること。歌や詩にしか出来ないもの。曖昧な風の抱擁のようなもの。抱擁するたびに確かめられる傷つけ絡むもの。
「その場所性は常にそれらの問題を明白にし、批判しうるほどの具体性と強さを持とうとしている。問題の困難さに負けない場所というのがある。」(『ノート3』)
場所性と云うのはこのようなことなのだ、曖昧な風の抱擁のなかに、その度に立ち上がる強い力。その場所を傷つけ「拉致」しようとするものを、指し示し歌う強い力のようなもの。
私の「小さな主体性など何ほどのものでもないが、その場所はそれをも鍛え直してくれるだろう。」(『ノート3』)
さて、私は鍛え直され、君の「小さな理性を呼び戻すことが」ほんとうにできるのだろうか。
その答えは私の頭の中や、どの詩集の文脈や余白にもない、しかしもう一度私自身のお気に入りの(あるいはたぶん此れからも未読であり続けるかもしれぬ)一編の詩編に立ち帰り、目配せをして、網の目を抜け、編み直し、風と抱擁し、その場所に立たねばならない。その場所はどこでもありどこでもなく、どこにでも繋がりどこからも入れぬ、今ではなく、過去でもなく未来でも永遠でもない。もしかするとその場所は、水島英巳が ”I will love you forever and a day" となぞったように、永遠の次の「一日」にやって来るのかもしれない。
*『小さなものの眠り』 著者:水島英巳 発行所:株式会社思潮社 発行日:2013年7月25日