『禅と合気道』という本を読みました。
印象に残った文章と、感想を書いておきます。
タイトル:禅と合気道
著者:鎌田茂雄、清水健二
出版:人文書院
初版:1984.3.20 Page26
「呼吸力」とは何か。私は意識と呼吸と肉体の動きを根源的に統一した力であると思う。 合気道には、呼吸法とか呼吸投げと呼ばれる技がある。 いまいちピンときていないが、『相手と呼吸を合わせる』とか言う時の呼吸と同じ意味合いだと思っている。 Page30
心をどんなものにもとどめないということは、身体がぐらつかないことである。合気道はすべての技法の動作が円運動でなければならない。そのため腰がぐらつくことを厳に戒める。
沢庵は『不動智神妙録』の中で、
身を動転せぬことにて候。動転せぬとは、物毎に留らぬ事にて候。物一目見て、其心を止めぬを不動と申し候。
と説明している。 Page46
柳生流の兵法においてもっとも大切な心の持ち方は、心が何ものにも束縛されずに円転自在に動き、しかも跡をまったく残さぬことであるという。 Page47
独楽が一人で立つことができるのは回転しているからである。もし回転が中止すれば、独楽は倒れる。 よく考えると、独楽は不思議だ。 地球ゴマなどもっと不思議だ。 地球が自転して太陽の周りを回っているのも不思議だ。 太陽系が銀河を回っているのも不思議だ。 頭で手を動かそうと考えたら手が動くのも不思議だ。 不思議だらけだ。 Page56
・・・合気道を始めてから、腕や手で文章を書くという感じがまったくなくなり、「腰で書く」ような感じを習得することができた・・・ 稽古中、倒れた状態から立ち上がるとき、腕や足の力で起き上がるのではなく、腰というか、身体全体で立ち上がれば楽な気がする。 Page77
となうれば、仏も我もなかりけり
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏 Page88
『五輪書』がなぜすばらしいかというと、自分の言葉で書いているからである。 ブログを書くにしても、自分の体験を自分の言葉で書くのと、他の人の文章をパクって表面だけ表現を換えて書くのとでは、雲泥の差があるように思える。 Page113
合気道の関節技は逆技のように思われがちですが、決してそうではありません。順手(曲がる方向)の方へ極める技がほとんどですが、しかし順手といえども現界を超えれば自然に体全体がその方向へ崩れることになります。 昔、学生時代にこの話を聞いたことがあったが、久しぶりに再認識した。 Page132
(1)正坐の際は左足の親指の上に右足の親指を重ね、右足から立ち易くする。
(2)顎を軽く引き、背筋を伸ばす。
(3)両膝の間隔は握りこぶし二つくらいが理想である。
いろいろと本を読んでいると、それぞれの本によって書かれてある事が微妙に違っていて面白い。 技の説明でもそうだ。 同じ合気道家でも人によってかなり違う。 正坐ともなると、武道はおろか、茶道とか花道とかでもその説明が書かれてあるだろうし、単なる家伝もあるだろう。それこそ、各家庭毎に作法が微妙に違うのだろう。 さらに、おそらく、植芝盛平翁の技が生前から時代とともに変化していったように、正坐の方法もドンドンと変わっていったのではないだろうか。 弟子は自分の坐り方が気になった時に、師匠に聞いたり、師匠の座っている様子を觀察したりして学ぶ。 しかし、それは、その時、その師匠から学んだその弟子にとっては正しいかもしれないが、師匠の坐り方はその後もドンドンと進化して変わっていったかもしれない。 年齢とともに変えるべきなのかもしれない。 『型』として変えないべきなのかもしれない。 よくわからない。 自分の身体によく聞くのが良いのだろうが、ちゃんと聞けているのかどうかもよくわからない・・・
著者:鎌田茂雄、清水健二
出版:人文書院
初版:1984.3.20 Page26
「呼吸力」とは何か。私は意識と呼吸と肉体の動きを根源的に統一した力であると思う。 合気道には、呼吸法とか呼吸投げと呼ばれる技がある。 いまいちピンときていないが、『相手と呼吸を合わせる』とか言う時の呼吸と同じ意味合いだと思っている。 Page30
心をどんなものにもとどめないということは、身体がぐらつかないことである。合気道はすべての技法の動作が円運動でなければならない。そのため腰がぐらつくことを厳に戒める。
沢庵は『不動智神妙録』の中で、
身を動転せぬことにて候。動転せぬとは、物毎に留らぬ事にて候。物一目見て、其心を止めぬを不動と申し候。
と説明している。 Page46
柳生流の兵法においてもっとも大切な心の持ち方は、心が何ものにも束縛されずに円転自在に動き、しかも跡をまったく残さぬことであるという。 Page47
独楽が一人で立つことができるのは回転しているからである。もし回転が中止すれば、独楽は倒れる。 よく考えると、独楽は不思議だ。 地球ゴマなどもっと不思議だ。 地球が自転して太陽の周りを回っているのも不思議だ。 太陽系が銀河を回っているのも不思議だ。 頭で手を動かそうと考えたら手が動くのも不思議だ。 不思議だらけだ。 Page56
・・・合気道を始めてから、腕や手で文章を書くという感じがまったくなくなり、「腰で書く」ような感じを習得することができた・・・ 稽古中、倒れた状態から立ち上がるとき、腕や足の力で起き上がるのではなく、腰というか、身体全体で立ち上がれば楽な気がする。 Page77
となうれば、仏も我もなかりけり
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏 Page88
『五輪書』がなぜすばらしいかというと、自分の言葉で書いているからである。 ブログを書くにしても、自分の体験を自分の言葉で書くのと、他の人の文章をパクって表面だけ表現を換えて書くのとでは、雲泥の差があるように思える。 Page113
合気道の関節技は逆技のように思われがちですが、決してそうではありません。順手(曲がる方向)の方へ極める技がほとんどですが、しかし順手といえども現界を超えれば自然に体全体がその方向へ崩れることになります。 昔、学生時代にこの話を聞いたことがあったが、久しぶりに再認識した。 Page132
(1)正坐の際は左足の親指の上に右足の親指を重ね、右足から立ち易くする。
(2)顎を軽く引き、背筋を伸ばす。
(3)両膝の間隔は握りこぶし二つくらいが理想である。
いろいろと本を読んでいると、それぞれの本によって書かれてある事が微妙に違っていて面白い。 技の説明でもそうだ。 同じ合気道家でも人によってかなり違う。 正坐ともなると、武道はおろか、茶道とか花道とかでもその説明が書かれてあるだろうし、単なる家伝もあるだろう。それこそ、各家庭毎に作法が微妙に違うのだろう。 さらに、おそらく、植芝盛平翁の技が生前から時代とともに変化していったように、正坐の方法もドンドンと変わっていったのではないだろうか。 弟子は自分の坐り方が気になった時に、師匠に聞いたり、師匠の座っている様子を觀察したりして学ぶ。 しかし、それは、その時、その師匠から学んだその弟子にとっては正しいかもしれないが、師匠の坐り方はその後もドンドンと進化して変わっていったかもしれない。 年齢とともに変えるべきなのかもしれない。 『型』として変えないべきなのかもしれない。 よくわからない。 自分の身体によく聞くのが良いのだろうが、ちゃんと聞けているのかどうかもよくわからない・・・
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