<「パウロと言い争っている問題は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者のことです。このイエスが生きていると、パウロは主張しているのです。(19節)>
数日経って、新総督を表敬訪問するため、王アグリッパ2世がその妹ベルニケを伴ってカイサリアに下って来た。
大神殿を建てたヘロデ大王の死後、ユダヤはローマによって直轄されていたが、大王の孫であったアグリッパ1世は巧みにローマ側にすりより、ユダヤ王として称号を受けることに成功し、ユダヤの統治をゆだねられた。
しかし、彼が44年に病死すると再びユダヤはローマの直轄地となった。17歳で父親が急死したアグリッパ2世に、クラウディウス帝はガリラヤ湖の北部と東部、ベレアの諸地域の統治を委ねた。彼は66年、ユダヤ人がローマに蜂起した時、ローマ側についた。
「ヘロデ王」が聖書に何度も登場するが、主イエスがお生まれになった時、ベツレヘムとその周辺にいる2歳以下の男の子をひとり残らず殺したのが「ヘロデ大王」、捕えられた主イエスを尋問したのがその子、ヘロデ・アンティパス。その子供がアグリッパ1世である。
ローマ帝国は基本的に被支配民族の文化を尊重し、統治者としてバランスのとれた巧みな統治政策をとっていた。しかし、多神教文化であった地中海世界と比べ、ユダヤは一神教を奉ずる特殊な文化を持つ地域であった。ローマへの反感はユダヤ人の底流にいつもあった。
フェストゥスは、アグリッパ2世にパウロの件を持ち出し彼の意見を聞こうと思った。王アグリッパ2世は、ユダヤの王として、自分もその男の言うことを聞いてみたいと言った。
翌日アグリッパ2世とベルニケが盛装し、千人隊長たちや町の有力者たちと共に謁見室に入ると、フェストゥスの命令でパウロが引き出された。目新しい思想や知識、哲学を身に着けることを楽しみにする社交場のような雰囲気の中にパウロは引き出された。
「フェストゥスの問題把握はよく整理され客観的でありますが、あくまで過去の他人事であり、自分自身には無関係なものでありました。」と8月の家庭礼拝歴担当、房総君津教会南純牧師は結ばれている。
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