マンションの高層階に虫なんていないと思っていたけれど、住みはじめて一年もしないうちにそうでもないということがわかってきた。さすがに冬のあいだは高層階に限らず地面の上にだってほとんど虫は顔を出さないけれども、気候が温かくなって蝶々がとびはじめる頃には、ベランダに蜜蜂が姿を現した。こんな高いところまで飛び上がってくるのかと少し驚いたものだ。さらに片隅の生ごみ入れからは小蝿が湧いてくるし、ベランダの植木にも小さな虫が発生するのは一体どこからどうやってそうなるのか不思議でならないのだ。昨日はキッチンの洗い場でコメツキムシを見つけたが、こんなものどこからやってきたのかと驚く。
部屋の中を小さな羽音をさせて飛んでいる虫を団扇で追い払いながらビールを飲んでいたシゲが言った。
「それにしてもすごいもんだな」
サヨは冷蔵庫から二缶目のビールを取り出してプルを引っ張ったところだったが、耳はちゃんと働いていたようだ。
「なんの話?」
「ほら、ミツのことだよ」
ミツというのはナカタの長男でダウン症を持って生れてきた子供だ」
「ああ、あの話ね」
「なんで今更そんな話を持ち出すんだ?」
一緒にビールを飲んでいたオツは少し不機嫌そうに口をはさんだ。
「いやいや、オレ、この話は気にいってるから。何度だって話したいんだ」
「気にいってるって……そんな話、する必要があるの?」
「いいじゃない、別に。悪くない話なんだから。ねぇシゲ?」
「そうだよ。オツ君、君だって俺たちと同じように恩恵を受けているんだからさ」
「恩恵? 同じように? そうなのかなぁ。そうは言ってもぼくは未だに差別されているような気がするがなぁ」
私たちは同じ病院で暮らしていた仲間だ。病院を離れてからずいぶん経っているのだが、同じ医療技術による遺伝子治療を受けたという特殊性がなんとなく結びつきを堅くしていて、ときどきこうして集まってはビールを飲むのだ。会話に出てきたミツだけはまだ子供なのでさすがに酒を飲ませるわけにもいかず、それにまだ学校に通っているということもあって集まりにはやって来ない。
「もとはと言えば山中教授のおかげなんだよな、俺たちがこうしていられるのは」
「そうね、でも発端は彼だけど、その後の実用化研究がすごかった」
「ええっと、最初は網膜再生だっけ?」
「そうそう、その次がダウン症」
「そっか、じゃぁミツが受けた治療は結構根源的なものだったんだな」
「そうよー。毎回同じこと言ってるわね」
「あああー。やっぱぼくはみんなほど頭がよくないから……」
「シゲがどんどん男らしくなっていくのには驚いたわ」
「サヨ、君だって」
「ううん。私の場合は既に身体ができあがってからの処置だったし、たくましい身体がそうでなくなるのにはずいぶん時間がかかったわ。最近になってようやく追いついてきたって感じかなぁ」
「いやいや、それは自分を厳しく見過ぎていると思うな、オレは」
サヨもシゲも、iPS細胞の応用によって性染色体異常のコントロールを受けたのだ。いつもシゲがミツのことを話題にするのは、ほんとうは自分たちが受けた治療のすごさを話したいからだった。それほどこの医療技術に驚異を感じ、感謝しているということだ。そしていつも話題の最後を締めくくるのはオツの話だ。
「でもほんとうに驚きなのはね、あなたなのよ、オツ」
「ほらきた。やっぱぼくの話だ。こういう展開が差別だって言いたいんだよ、ぼくは」
「だって。これって究極じゃない?」
「ほんとうだよ。異種間でも遺伝子治療が可能だってことがわかったんだからな」
「ほんとうはほとんどの生物は同じ遺伝子を持ってるのさ。それを人間が便宜上分類するために区別をつけただけなんだろう?」
「いやいやそうは言うけれど、そのちょっとした遺伝子の違いが大きいのよ」
「あんたがたはそう言うけど、もともとのぼくと君らの間では遺伝子は1%しか違わないんだぜ」
「知ってるわよ。だからその部分をiPS細胞で変えることができたんでしょ」
「オツ君が研究所にいたチンパンジーだったなんて、もう誰も思わないだろうよ」
「あっ。それ、個人情報だぞ。口にしちゃあだめだ」
オツは飛んでいる蝿を両手でぴしゃりとたたき落とした。見ていたサヨが呟く。
「そのうちこの蝿だってiPS細胞で変化できるのかもね」
了