日本帝国主義の夢が潰えた国であり、故郷を捨てた日本人の再出発の夢が消えた土地。『主義者殺し』甘粕正彦終焉の地であり、戦後の日本を支えたシンクタンク「満鉄調査部」誕生の地、時速130kmで特急「あじあ」が駆け抜けた地。「満洲」という語は、日本人のDNAの中で来るべき目覚めを待つ夢として眠っているんではないかと、勝手に思っています。
第1巻は、満州事変の立役者でもある関東軍高級参謀板垣大佐と作戦主任参謀石原莞爾中佐を主人公にしつつ、ふたりに振り回される関東軍司令官本庄中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将、参謀本部建川少将など将軍たち、中国側に北大営の王鉄漢を配し、昭和5年の奉天から始まり、廃帝溥儀の天津脱出までを描きます。まさに「満州国演義」です。
【日本の生命線】
中国への日本帝国の進出は、日清戦争に始まります。下関条約で遼東半島を割譲されますが三国干渉で返還します。ついで日露戦争に勝利し、ポーツマス条約で、ロシアは南満州支線・長春 - 大連間の鉄道施設・付属地(炭坑)の租借権、及び旅順・大連をの租借権を日本へ譲渡します。これが日本の大陸への第1歩です。もともとロシアが持っていた鉄道と沿線の行政権を戦争賠償として譲り受けたということです。
何故ロシアが清の領土にこうした権益を持っていたかというと、日清戦争の賠償問題(三国干渉)の見返りとして、ロシアは鉄道敷設権を得たようです。これがポーツマス条約で日本帝国に回ってきたということです。
満州については、三国干渉とポーツマス条約で日清、日露戦争で得るべき権益が十分確保出来なかったという背景があります。満州が「日本の生命線」と呼ばれるのは、ロシアの南下を防ぐ防衛戦であると同時に、日清日露戦争で多大な血を流して勝ち得た生命線という意味もあるのではないでしょうか。鉄道の線路に沿って「線」として伸びる日本の植民地という意味もあったんでしょう。そして、荒っぽく言えば、鉄道と付属地守備のために置いのが関東軍です。
この「生命線」を脅かされると、必要以上にナーバスとなる日本の世論を利用して、板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐は柳条湖事件を起こし、満州事変→満州帝国へと突っ走ったわけです。
【満蒙領有計画】
満州事変、満州帝国は関東軍の独走のように言われますが、国民の方にも満州の地に日本帝国の植民地を期待する気分が強かったのも事実です。1929年に始まる金融恐慌は、日本経済に深刻な影響を与え農村は疲弊します。国内の余剰労働力の捌け口(移民)として満州に期待したわけです。石原中佐の「満蒙問題私見」には
中国への日本帝国の進出は、日清戦争に始まります。下関条約で遼東半島を割譲されますが三国干渉で返還します。ついで日露戦争に勝利し、ポーツマス条約で、ロシアは南満州支線・長春 - 大連間の鉄道施設・付属地(炭坑)の租借権、及び旅順・大連をの租借権を日本へ譲渡します。これが日本の大陸への第1歩です。もともとロシアが持っていた鉄道と沿線の行政権を戦争賠償として譲り受けたということです。
何故ロシアが清の領土にこうした権益を持っていたかというと、日清戦争の賠償問題(三国干渉)の見返りとして、ロシアは鉄道敷設権を得たようです。これがポーツマス条約で日本帝国に回ってきたということです。
満州については、三国干渉とポーツマス条約で日清、日露戦争で得るべき権益が十分確保出来なかったという背景があります。満州が「日本の生命線」と呼ばれるのは、ロシアの南下を防ぐ防衛戦であると同時に、日清日露戦争で多大な血を流して勝ち得た生命線という意味もあるのではないでしょうか。鉄道の線路に沿って「線」として伸びる日本の植民地という意味もあったんでしょう。そして、荒っぽく言えば、鉄道と付属地守備のために置いのが関東軍です。
この「生命線」を脅かされると、必要以上にナーバスとなる日本の世論を利用して、板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐は柳条湖事件を起こし、満州事変→満州帝国へと突っ走ったわけです。
現下の不況を打開し東洋の選手権を獲得する為には速に我勢力圏を所要の範囲に拡張するを要す 満蒙は我人口問題解決地に適せす資源亦大日本の為には十分ならさるも次の諸点より観て所謂満蒙問題の解決は刻下第一の急務と云はさるへからす
二 経済的価値1 満蒙の農産は我国民の糧食問題を解決するに足る2 鞍山の鉄、撫順の石炭等は現下に於ける我重工業の基礎を確立するに足る3 満蒙に於ける各種企業は我国現在の有識失業者を救ひ不況を打開するを得へし 要するに満蒙の資源は我をして東洋の選手たらしむるに足らさるも刻下の急を救ひ大飛躍ノ素地を造るに十分なり
満州においては関東軍は満鉄沿線という線でしか作戦を展開出来ません。「柳条湖事件」もまた満鉄沿線で起こります。列車が転覆したわけでもなく、死傷者がでたわけでもなく、路線が一部爆破されただけの「事件」というにはおこがまし事件です。これを東北軍の「大事件」として、関東軍は兵力1万を動かして東北軍の北大営を落とし奉天を制圧します。
柳条湖事件から満州事変を起こしたのは板垣・石原の関東軍参謀コンビですが、関東軍司令官本庄繁、朝鮮軍司令官林銑十郎、参謀本部第一部長建川美次までこの計画を知っていたようです。
第1巻で一番面白いのは、柳条湖「事件」が満州「事変」へと「発展」してゆく過程です。時間でわずか3日、陸軍の出先機関の謀略を、国家の軍事行動と追認してゆきます。「不拡大」の閣議決定もなんのその、事件の翌日には奉天、長春、営口など満州南部の主要都市を占領します。関東軍の兵力は1万と寡兵、がら空きとなった南満州の守りに独断で朝鮮軍が兵を進めます。海外派兵は天皇の許可(允裁)が要るわけですが、これも関東軍と朝鮮軍が気脈を通じて勝手に仕組んだ「作戦」のひとつ。
柳条湖事件から満州事変を起こしたのは板垣・石原の関東軍参謀コンビですが、関東軍司令官本庄繁、朝鮮軍司令官林銑十郎、参謀本部第一部長建川美次までこの計画を知っていたようです。
政治に対して「統帥権干犯」というのが陸軍のお家芸でしたが、この時は統帥権も何もあったものではありません。明らかに、関東軍の作戦勝ちです。
この本の面白さは、例えばこんなところにあります。朝鮮軍の独断出兵を誘うため、関東軍は吉林に出兵したいわけですが、本庄司令官と三宅参謀長のOKが出ません。板垣、石原の参謀には命令権はありませんから、板垣がふたりを説得に向かいます。
本来、朝鮮軍の独断出兵は、文字通りに独断というところに意味がある。関東軍が独断で戦端をきり、朝鮮軍も独断で出兵する。それじゃやむを得ぬと中央が立ち上がる、という仕組みでなければならぬ。・・・「すんだよ。決済をいただいた」さすがは“御前サン”(板垣のあだ名)だ、一同は胸奥で安堵の嘆声を挙げながら、座りなおした。石原中佐は、早速命令起案紙を机にのせて、鉛筆を走らせはじめた。(P270)
9月21日午前3時の描写です。恐ろしいと言えば恐ろしい話です。満州事変は板垣、石原の策謀ということですが、石原が絵を描き、板垣がそれをそれを実行してゆくというふたりのコンビネーションが実に巧みに描かれています。
@赤字は満州、黒字は内地の対応
1931年9月18日
22:20 柳条湖事件
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9月19日
01:07 陸軍中央に事件の第一報着
01:30 関東軍、各部隊に攻撃命令
04:30 奉天城西側および北側が占領
06:30 北大営を制圧
07:00 陸軍省・参謀本部合同会議、兵力派増、朝鮮軍派兵を閣議に提議決定
08:30 林銑十郎朝鮮軍司令官飛行隊2個中隊を関東軍に派遣、混成旅団の出動を準備
10:00 緊急閣議を召集「不拡大」を決定
10:15 朝鮮軍混成旅団が逐次出発との報告が入る
12:00 本庄司令官奉天に到着、東洋拓殖会社ビルに司令部設置
13:30 若槻首相参内、内閣の不拡大方針を昭和天皇に奏上
14:00 陸軍三長官会議、「満洲における時局善後策」を作成
満鉄沿線の満州南部主要都市の占領完了
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9月20日
奉天市長に奉天特務機関長の土肥原賢二大佐が任命される
留民保護を名目に第2師団主力を吉林に派兵(特務機関の謀略)
10:00 軍中央は柳条湖事件をもって満蒙問題解決の糸口とすることを確認
14:00 参謀総長参内、戦闘経過と各地の軍の配備状況を報告、は閣議決定尊重を奏上
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9月21日
閣議では「事変とみなす」ことに決定
01:20 朝鮮軍(混成第三十九旅団)独断で鴨緑江を越えて関東軍の指揮下に
18:00 金谷範三参謀総長参内、独断越境の事実の報告と陳謝
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9月22日
朝鮮軍の満州出兵経費の支出を閣議決定
若槻首相、陸相、参謀総長上奏して允裁を得る、朝鮮軍の独断出兵は事後承認にり正式の派兵
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9月24日
これ以上の不拡大を閣議決定