幽霊(10)
二人が辿り着いた先は、病院から十分ほど歩いたところにある喫茶店で、繁華街から少し外れたところにある。ラブホテルでも探しているのかとやきもきしたけど、少し安心した。信也君を連れて二人の濡れ場を見る羽目にならずに良かった。ホントに二人は先輩の私に心配ばかりさせる。
二人に重なるようにして店内に入ると、店のマスターらしき初老の男性が声をかけた。
「いらっしゃい、お好きな席にどうぞ」
声のする方に目を向けて驚いた。
「ねぇ、あの人じゃない?」
「うん、僕もそう思った。」
信也君は私の手を離し、マスターを下から見上げるように見ている。あご髭はあるけど、せいぜい五センチくらいだ。でもあの髭を三十センチに伸ばすと、どこかで出会った老人にそっくりだ。でも私たちに気づいた様子は無いから見えていないのだろう。
「神様みたいだなぁ」
信也君はそう言うと、私を見て微笑んだ
「そうね、神様ってね、以外とこんなところにいるのかもね」
もっと見ていたかったけど、二人の様子も気になり、二人の横に立った。俊介はソファーに深く腰を下ろし、マスターが持ってきたおしぼりを手に取ると、くたびれた中年男のように顔を何度も拭いた。絵里子も同じように深く腰掛け、ひと言も喋らない。いつもの彼女らしくない。彼女のお喋りが止まればどれだけ静かになるだろうと何度思ったことか。絵里子が黙っているのは何か心配ごとがある証拠だ。
端から見ても二人が疲れていることがわかる。私は立っていることにも歩くことにも疲れを感じない。これは霊体の特権みたいで嬉しい。これなら二時間でも三時間でも俊介の隣に立っていられそうだ。信也君は勝手に店内をうろつき廻り、時々マスターを見上げている。
客は俊介たちだけで、店内にはモーツァルトの交響曲、第四十番が流れている。父がよく聴いていた曲で懐かしさが蘇った。普段クラシックはほとんど聴かず、大抵は難しそうなジャズばかり聴いていた父だけど、どういう訳かクラシックばかり聴くことがあった。それも、モーツァルトの三大交響曲に限られていた。その理由を尋ねると、不思議な曲だとしか教えてくれなかった。哀しくて勇ましくて、そして美しい曲だねと言ったら、そうだなと言って黙った。その頃の父に何があったのかわからないけど、そうだなと言って黙った父の横顔を、なぜだか今も覚えている。
絵里子の携帯が鳴った。どうやらもう一人ここに来るらしい。
「どうしたの?」
「少し遅れるって連絡よ。それにしても部長とはね。私もね、薄々変だなって思ったことはあったけど、まさかこんなことになってるなんて夢にも思わなかったわ」
絵里子はそれだけ言うと、黙ってコーヒーを口に運んだ。
「俺はもうおしまいかも知れないよ。俺はぺーぺーの社員で、相手は部長だよ」
俊介はそう言うとコーヒーを飲んだ。
「彼女が来れば、何とかなるわ。大丈夫よ」
絵里子が励ますように言った。
彼女って誰よ、一体何の話なの? この前は二人でワインレストランに仲良く行ってたじゃない。何があったのよ。聞いてるだけなんて、こんなにイライラすることは無い。もし私の声が聞こえるなら、質問攻めにしてやる
「ところでさぁ、さっき、信号のところで一美先輩を見たって言ったじゃない。今さぁ、ふっと思ったんだけど、一美先輩の中には、薫っていう双生児の姉妹がいるってお母さんが言ってたよね。もしかしてよ、その薫って人じゃないかしらって思ったの。だって、一人の身体の中にもう一人いるなんて、それだけでも普通考えられないことよ。今の一美先輩は昏睡状態だから、何か不思議なことが起きても、全然ありって気がしてきたの。俊介はどう思う?」
絵里子にしては、いいところを突いている。
俯いて考え込むようにしていた俊介が口を開いた。
「俺は、あんなに驚いたことは無かったよ。だってさぁ、絵里子の電話で、一美先輩は今日も昏睡状態で、変化なしって聞いたばかりだったんだよ。電話を切って歩き出したところで見たんだからね。俺の頭の中はパニックだったよ。でもね、あれは絶対見間違いなんかじゃない。薫って人かどうかはわからないけど、顔は間違いなく一美先輩だったよ」
俊介の目に少し力が戻ってきたように見える。
「ちょっと待って、私、病院に電話して確認するわ」
絵里子はそう言うと、携帯を取り出し病院に電話をかけた。見舞いに行きたいので病状を教えて欲しいと話している。
「大丈夫だったわ。昏睡状態だけど今のところ安定しているって言ってた。でも、見舞いに行く前に、家族の方の了解を得て下さいだって。一美は生きてるから幽霊なんかじゃないわ。もしかして、私が病室を出た後、何かが起きて急死したんじゃないかと思ったわよ。とにかく生きてて良かった。でも、なんだったんだろうね」
絵里子はそう言って顔をオーバーに傾けた。
「もう一つわからないのは、一美先輩が、見たことの無い少年と手を繋いでたことだよ。誰なんだろうなぁ、あの子どもは」
俊介も同じように顔を傾けている。
もう、じれったくて仕方が無い。大声で真相を話したい。私はあんたたちの横に立っているとわからせたい。フェイズバンクのことも、薫のことも全部話したい。試しに何度か、絵里子の耳に口を近づけて名前を呼んでみたけど、何のリアクションも無い。本当に鈍感な奴だ。
「姉ちゃん、ちょっとうるさいよ」
信也君が迷惑そうに言った。どうやらモーツァルトの四十番が気に入った様子で、マスターの隣に座り、目を閉じて聴いている。マスターは何か落ち着きが無い。
ドアの開く音がして振り向くと、絵里子と同期で、秘書課の遠藤貴子が入ってきた。いつもの勝ち気そうな表情は消え、地味な服装は余計に暗く沈んだように見せている。社内には、彼女を気に入っている男性社員が数人いて、誰かがアプローチしたとかの噂が絶えなかった。最近、そんな話が聞かれなくなったのは、きっと部長のせいに違いない。彼女にアプローチした男性社員は、必ず部長から呼び出され、厄介なことを押しつけられたりするからだ。部長の性格をよく知る社員は決して彼女に近づこうとしない。
「ごめんなさい」
貴子は遠慮がちに腰を下ろし、遅れたことを詫びた。最近は寝付きが悪く、眠ってもすぐに目が覚めたり、明け方まで眠れないこともあると話した。確かに少しやつれたように見えるし、入社当時の弾けるような明るさが見られない。
はっきり断らないからだわ。しかも相手が部長だから余計に始末が悪い。一年でも会社にいれば部長の手癖の悪さが見えるけど、それにしても簡単に引っかかり過ぎだわ。私なら適当に遊んで、最後にお金をふんだくってやるのに。
「どうなってるの?」
絵里子が心配そうな表情で訊いた。