【誰も知らなかったビートルズとストーンズ/中山康樹/13年4月初版】 本書は、ビートルズとローリングストーンズの交流を探り、両者がどのような影響を与え合い、 また創造的触媒として機能しあったかという点に主眼をおいて、書かれています。 結成から半世紀を超え、神格化、伝説化されてる両ロックバンドですが、その歩みは決して 順風満帆ではなく、泥臭く苦しみ、人間臭く悩み、結果として今の位置に到達しています。 「そのころのぼくらは、かなり不安定な状態だった。レコードが出せなかったらどうにも ならない。成功できるなんて思えなかった。ぼくらが成功するって言っていたのは、ブライ アン・エプスタイン(マネージャー)だけだった。ロンドンから戻ってきたブライアンは、 ぼくらの顔をまともに見れなかった。20回はレコード会社から断られていたからね」 byジョンレノン 「レコード契約に関しては、ブライアンエプスタインに任せていたんだ。彼がリヴァプール へ帰ってきて「今回もダメだった」と言うのを何度聞いたことか。ぼくらはいつもライム ストリート駅か、パンチ&ジュディという近くのコーヒーバーで、彼の列車が着くのを何時間 も待ったものさ」 byポールマッカートニー 「俺たちは、いつ吹き飛んでもおかしくないバンドだった。成功するなんて誰も思ってなかった。 望みといえばロンドン一のブルースバンドになって、女たちにいいところを見せてやることだけ だった。それくらいならできそうだったから。みんなにマディウォーターズやジミーリードを 教えてやろう。それだけだ。考えていたのは。レコードをつくるなんて、夢のまた夢だった」 byキースリチャーズ 「いかなることにも増して、お金で買えるあらゆるものを超越して、平土間一等席のうしろの ほうで頬杖をつき、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴのステージの幕が上がっていくのを 見ているのが、私は好きなのです。明日はどんなふうになるのだろう。太陽はやはり明日も 輝くと、私は思う」 byブライアンエプスタイン 「ぼくらはブライアンが死んだことをバンゴアで聞かされた。ズンと気持ちが重くなった。 頭が混乱して、信じられなくて、ウソだろうとしか思えなかった。なにより死んだのは、 ぼくらの友達だったんだ。ブライアンは友達だった。ぼくら全員取り残されてしまった」 byリンゴスター 「ブライアンが死んだあとは、ぽっかりと大きな穴が開いたようだった。彼と出会ってぼくらは プロになり、レコード業界やロンドン・パラディアムに向かって進み始めたんだから。ぼくらは 自分たちのビジネスや金銭面については何も知らなかった。彼がすべてみてくれていたんだ。 だから彼がいなくなったあとはメチャクチャだったね」 byジョージハリスン ビートルズやストーンズでさえ、うまくいくと思ってなかったし、つらい思いを経験している。 そう考えると、ぼくらの人生も少しは気が楽になりませんか?夢で飯は食えませんが、精神衛生上 は小さな夢を見続けることが大切だと思います。 ついでと言ってはなんですが、83年初版の古い本が手元にあって、たまに読んでいるのですが、 そこに書かれてある好きな部分を。 「コービンという町で小さなレストランを営んでいた老夫婦がいた。お客の90%までが旅行者で 占められていた。ある日11キロはなれた地点にハイウェイができたことによって、お客はほとんど 来なくなってしまった。66歳の店主は、生活保護を受ける生活を余儀なくされた。そして妻と 逆境を嘆きあった。 しかしこれではいけないと、生活保護費の105ドルを元手にお客から好評の料理をつくり、車に 積んで商売をはじめた。この人こそ、ケンタッキーフライドチキン創始者のサンダース会長であった」 以下に、その他の読書メモを。 <ビートルズがデッカレコードのオーディションで落とされた本当の理由> 最終的な判断は、マイクスミスに委ねた。私としてはどちらでもよかったんだ。マイクは迷った末に トレメローズを選んだ。マイクは言った。「両方のグループともよかったと思います。しかし一方が ロンドンで、一方がリヴァプールということを考えれば、ロンドンのグループを選ぶべきでしょうね」 私は彼の意見に同意した。いっしょに仕事をするとなると、地方のグループでは話にならない。その点 ロンドンのグループは話が早い。すぐに連絡がとれるし、いつでもデッカのスタジオに来ることが できる。当然の選択だった。byディックロウ 歴史や定説ではディックロウがビートルズを落としたことになっている。だが事実はそうではない。 マイクスミスが落としたんだ。トレメローズはマイクがロンドンで一番気に入っていたグループだった。 しかもトレメローズはそれまでに何度もデッカのセッションで仕事をしていた。ようするにビートルズは マイクがトレメローズと契約しやすいように利用されたんだbyピートベスト その後のジョージマーティン(プロデューサー)との出会いを思えば、デッカとの契約が不成立に終わ ったことは、ビートルズにとっては幸運だったというべきかもしれない。 <LPの時代> 当時は長続きした奴なんていなかったから、俺たちも2年でおわるだろうなって思っていた。ビートルズ も同じことを考えていたはずさ。だが面白いことに、このころからLPが重要な要素になってきたんだ。 それまではLPを買うのは、大人がクリスマスに20年前からファンだったフランクシナトラやデューク エリントンのアルバムを買うぐらいだった。LPっていうのは思い出を甦らせる道具みたいなものだった。 そのころはイギリスのレコーディングアーティストはスタジオでヒット曲を1,2曲録音したら、あとの 10曲は適当な曲で埋めるのが普通だった。でもビートルズと俺たちは、全曲シングルにするつもりで 録音していた。あのころからレコーディングのやり方やレコードに対する考え方が変わってきて、バンド の寿命を延ばすことになったんだbyキースリチャード <ノルウェイの森と黒くぬれのシタール> ジョージがシタールを手に入れたばかりだった。いろんなアレンジでやってみたけど、どれもしっくり こなかった。ぼくは頭にきはじめていた。ぼくが言ったとおりの仕上がりではなかったんだ。ジョージは その曲を弾けるかどうか確信をもてずにいた。まだあまりシタールを練習していなかったからね。だが 彼には挑戦する気持ちがあった。ジョージはいつもの調子で演奏法を学び、あとからその部分を重ねた。 byジョンレノン ブライアンジョーンズとはクラブでも会っていたし、よく遊んでいたよ。60年代の半ばくらいには、 よくぼくの家に来ていた。とくに彼が不安になったときや、変なものを一度にいろいろやりすぎたときさ。 庭から彼が「ジョージ、ジョージ」って叫ぶ声がすると、ぼくは彼を入れてやる。いい仲間だった。 ぼくがシタールに凝っているころもしょっちゅう来ていたよ。「黒くぬれ」の話をしているうちに彼が ぼくのシタールをとって試してみた。すると彼、すぐに弾けちゃうんだよ。 考えてみれば僕ら2人(ジョージとブライアン)にはずいぶん共通点があった。誕生日もほとんど同じだし、 世界で最も有名なバンドの中で同じような位置にいたしね。彼にはミックとキースがいて、ぼくにはジョン とポールがいた。彼はぼくと通じることをずいぶん感じていたと思うよ。ぼくは彼の事が好きだった。 byジョージハリスン 黒くぬれ!ローリングストーンズ ノルウェイの森 ビートルズ
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