幽霊(8)
目の前に見覚えのあるビルが見える。確か………そう、ミニブタの時だわ。絵里子の車に乗せられて病院に来た時に見た様な気がする。屋上には大きな広告塔が乗り、女優が美味しそうにビールを飲んでいる。だとしたら、ここは病院の近くに違いない。さっきの妙な世界から戻ることができたようだ。信也君が連れて来てくれたのか、それとも私の意思なのかよくわからない。どちらにしても、私は信也君の手を握って、コンクリートの地面の上に立っている。一瞬でこの世界に戻り、髭の長い男と話したことが、遠い過去の夢のような気がする。
「どこに行ってたのかしら」
「どこかだよ。どこかに行って、誰かと話をしたんだ。僕は、はっきり覚えているよ」
信也君はそう言って空を見上げ、私もつられて一緒に空を見上げた。私たちの行ったところはこの空の上かも知れないし、空に裏側があるとしたら、その裏側のもっともっと奥のようなところかも知れない。その、どこかは本当にあるような気がする。
周囲に慌ただしさを感じ、辺りを見廻すと、私たちの立っているところは大きな交差点で、目の前の信号が青になり、沢山の人が一斉に歩き出した。
「ねぇ、神様がいるかも知れないから探しに行こうって病院を出たんだよね」
私は忘れ物をしたような気分になった。
「うん、そう、神様探しだね」
信也君が返事をし、私は、スクランブル交差点を渡る人を注意深く観察した。もしかしたら、さっきの老人が、素知らぬ顔で杖をついて歩いていそうな気がしたからだ。髭の無い顔を思い浮かべながら観察したけど、それらしい顔を見つけることはできなかった。
だけど、時々変な人を見かけることがある。もしかしたら私たちと同じかも知れない。かなり距離が離れているのに、妙に視線が合うことがある。最初は何かの偶然かも知れないと思ったけど、考えたら、姿の見えない私と視線が合うはずがない。
「信也君は何度も外に出たことあるんでしょう。私たちみたいな人はいるの?」
通り過ぎる人を観察しながら訊いた。
「そんな人はいくらでもいるよ。見えているのに、わざと知らんぷりして行く人の方が多い。それにね、生きているのに、僕を見つける人もいるよ」
信也君は、ほら、あそこ! と言いながら指さした。信号は青の点滅になっているのに、交差点の真ん中で立ち止まっているこちらを見ている男がいる。一瞬、視線が合ったような気がした。心臓が大きく波打ち、小さな声を出した。
〈俊介? 俊介だわ!〉
信号が変わった。一斉に車がスタートし、クラクションを鳴らしながら、男の横をスピードを上げて通り過ぎて行く。俊介は車の流れを見ながら、器用に間をすり抜けるようにしてこちらに向かってくる。信也君の手を強く握り、身動きできないで見ていると、後ろから聞き慣れた声がした。
「何してんのよ! 死ぬとこだったわよ」
絵里子? 振り返ると、すぐ後ろに絵里子が立っている。
俊介は交差点を渡り切り、私の目の前に立った。私と視線が合っているようだけど、視線は私を突き抜け、後ろに立っている絵里子に向かっているようだ。
「死ぬかと思ったよ」
俊介は息を切らしながら言った。
「あんなところで何してたのよ」
絵里子は俊介の手を握って言った。