<断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。(16節)> 申命記9章「あなたたちのすべての罪のゆえに、わたしは前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した。」モーセは子牛の鋳象を造ったイスラエルの民とアロンのために断食して祈った。断食は旧約の時代からすでに実践されていた。 罪を悔やむ行為としては断食の他に、粗布をまとったり、頭に灰をかぶったりした。ユダヤの「贖罪日」は10月ごろにあり、大祭司はこの日至聖所に入り、人々は罪のざんげのために断食する定めになっていた。 イザヤ書58章「なぜあなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めて下さらなかったのですか」と問いかける者に主は「見よ、お前たちはしたい事をし、お前たちのために労する人々を追い使う。 お前たちは断食しながら争いと諍いを起こし、神に逆らってこぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食、苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それをお前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか」と応えられた。 主イエスは「あなたは断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と勧められる。人に見てもらおうと顔を見苦しくしたり、沈んだ顔つきをしてはいけない。それは偽善者のすることだとたしなめられた。 「主はここで断食そのものを禁じているのではありません。むしろ、これ見よがしの行為を非難されます。大切なのは人間の内側にある態度です。目に見ることの出来ない神は、わたしたちの心の中を御覧になるのです」と森下牧師は説かれる。 仏教でも、滝に打たれたり禅を組んだりして修業されている。難行苦行の末それを成し終えた人はなんかすがすがしく何かを得られたんだなぁと思って羨ましくなる。 カトリックが多い南米などでは苦しい断食あけの喜びをカーニバルで爆発させる。失礼ながら何のための断食だったのか忘れてしまっているんじゃないだろうかと思うときもある。
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