<だから、こう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。・・・」(9.10節)> ユダヤ人は通常、神殿や会堂で立って手を上げ人前で祈った。跪いたり、地面にひれ伏したりして祈ることもある。施しをするときと同様、そのような大げさな仕草で人に見られるように祈るのは間違っていると主イエスは説かれた。 主イエスが教えて下さった主の祈りは、「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけで始まる。神は天におられ、わたしたちの心の中や、頭の中にある理念のようなものではないことを示す。また、主イエス・キリストに結び合わされた者として、そのキリストの父である神をわたしたちも「父よ」と親しく呼ぶ関係へと招かれる。 私たちの教会では、礼拝で、祈祷会で、様々な集まりの場で、主の祈りを祈る。祈りはひたすら「御国がきますように、御心がきますように」と祈るものであって、自分の利を願うものではない。私たちは神の僕であって、神に指図する立場にはない。 <靖国神社問題についての教会の使命> 首相の靖国神社参拝は国の内外に大きな波紋を生じさせました。この問題は外交問題であると同時に内政の問題であり、歴史認識に関わる問題であるとともに、憲法の政教分離の問題です。さらにいえば、すぐる戦争で亡くなった多くの人々をどう追悼するか、戦没者追悼の問題でもあります。 私たち日本キリスト教会は、1969年に国会に靖国神社法案が提出された時から関わってきました。すでに40年以上が経過しました。私たちにとって、この問題は何より国家と宗教の問題、国家による信仰や内心の自由への干渉に対する反対運動でした。A級戦犯の靖国神社合祀がなされてからは、この問題は歴史認識、外交上の問題として大きくクローズアップされるようになりました。しかし、私たちはその問題が起こる前から、教会として、宗教者として、国家に対して、神社神道との癒着、神道を国家と結びつけることは、戦前の国家神道体制の復活であり反対であること、新しい憲法は、戦前の国家神道体制を廃止し、そのもとで起こった信教の自由の抑圧に対する反省によって、政教分離の規定が定められていることを主張してきました。 もし、政府が聞く耳を持って、憲法の政教分離の定めに従い、首相が一宗教法人である靖国神社に参拝することは憲法違反であることを認め、それを中止するなら、現在起こっているような外交上の摩擦、対立も起こらなかったでしょう。わたしたち日本に生きる信仰者、宗教者は、為政者に対して憲法の政教分離を守って、宗教に関与することを止めるよう訴える事は、まず為すべき使命であると信じます。
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