お断り
まず初めに少しだけ書かせてください
私は 「死刑」 という刑罰に対して肯定派です
たとえどんな理由があろうとも 『正当防衛』 以外で人を殺めた場合
極刑以外での罪の償いはできないと考えています
それは殺めた人の数に限らず また犯人の年齢に関わらず極刑にされるべきだとも考えています
ときどき 人を殺めた被告人に対して 『精神鑑定』 といったものをとり
犯行当時に責任能力があったか否かを調べる措置をとりますが
私はこういった措置をとること自体が間違っているのではないかと思っています
犯行当時 どんな状態だったにしろ人を殺めた事実に変わりはなく
殺めた理由についても 大概が身勝手なものばかりだからです
以前にも 「死刑」 という刑罰について私の意見を書かせていただいたことがあります
「死刑廃止運動」 をされている方々に対しての意見も書かせていただきました
気になる方・または私の意見を読んでみたいと思われた方は
「死刑」 という刑罰へのチナリの意見
をクリックして読んでみてください
最後にもう少しだけ書かせてください
私は 「死刑」 という刑罰に対しては肯定派ですが
実際に死刑囚への刑が執行されたというニュースが報じられたとき
その死刑囚がどんなに凶悪な事件を犯していたとしても
何かとても虚しい気持ちになり ずっとその犯人のことを考えてしまいます
それは死刑囚とはいえ ”尊い命” がこの世から消えてしまったという事実を突きつけられたからという思いと
それに加えて
「ほんの数時間前までは まだ生きていたんだよな」
という思いが湧き上がってくるためだと思います
例え どんな人間であれ 人が亡くなってしまうということは とても悲しいことです
それでも私は 「死刑」 という刑罰はなくしてはいけないものだと考えています
チナリより <(_ _)>
『凶悪事件』 の記事に関しまして
私は記事としてお書きする以上
”責任” を持って書かせていただいております
記事を読んでくださる方の中には
”死刑廃止派” の方もいらっしゃることと思います
もし そういった方から記事への批判コメントが書かれたとしても
私はすべてを承認させていただいたうえで
私自身のコメントとともに返させていただきます
ただ 自分の感情が入ってしまったからなのかどうかは知りませんが
初コメントに対して
私のことを ”お前” 呼ばわりされる方がおられます
ネット上における匿名性を利用しているので
そのような強気発言ができるのだとは思っていますが
初コメントをお書きになられる場合は
例え批判コメント・反対意見のコメントだとしても
できるだけ失礼に当たらないようコメントをされるのが筋だと思います
私は批判意見をお持ちになられる方がおられることをわかってお書きしています
もし 批判コメントや反対意見などをお書きになられる方がいらっしゃいましたら
せめてそのくらいのマナーを守ってお書きください
臆病者は糞 (くそ) を喰らう (くらう)
<バクレか・・・ ノイローゼか・・・ 死刑執行に怯えた男は ”発狂” した>
本山茂久
─ 事件概要 ─
1960年5月
東京のカバン会社社長の子息で慶應義塾幼稚舎2年の雅樹ちゃんが誘拐され
自宅に身代金要求の電話があった
捜査が開始されるが 身代金の受け渡しはなされぬまま
雅樹ちゃんは遺体となって発見された
雅樹ちゃん誘拐殺人事件 本山茂久
拘置所にて
看守 A 「この棟には殺人事件など重大事件に関わった未決囚が収監されている」
看守 B 「・・・・・・」
看守 A 「いろんな意味で他の棟とは勝手が違うから気をつけろよ」
看守 B 「はい!」
看守 Aはある独居房の前で立ち止まり 看守 Bにビニール袋を渡してこう言った
看守 A 「こいつを頭からかぶれ!」
看守 B 「ビニール袋? どうして・・・」
看守 A 「覗いてみりゃわかるよ」
看守 B 「あ はい・・・」
看守 Bは独居房の中を覗いてみた
すると 中からナニかが飛んできた───
看守 B 「わっ!!
うわーっ! これは糞 (くそ) だ!!」
この独居房の中には本山茂久 (当時33歳) が入っていた
本山の様子は明らかにオカしく うめき声を上げながら全裸で大便をしていた
看守 B 「す すぐに医者を呼ばないと!!」
看守 A 「いいんだよ 放っておけば ありゃあバクレだ」
看守 B 「バクレ・・・・・・!?」
バクレとは
刑務所用語
本当は正常であるにもかかわらず
精神異常者を装うことを意味している
本山は大便をし 自分が排泄したモノを食べ始めた
看守 B 「でも自分の糞を食ってますよ!
本当にバクレなんですか!?」
看守 A 「あいつはてめえの欲のために見ず知らずの子供を誘拐し
捜査の手が迫ると その子をアッサリと殺して逃げたんだぜ
死刑から逃れるためなら糞ぐらい平気で食ってみせる男だよ!」
看守 B 「・・・・・・!!」
昭和35年 (1960年) 5月16日 朝 公衆電話にて
本山 「子供を預かった
返して欲しければ二百万円用意しろ」
本山茂久 (当時32歳) が誘拐したのは
銀座で高級カバン店を営む (いとなむ) 資産家の息子 大崎雅樹ちゃん (仮名:当時6歳) だった
本山が指定した身代金の受け渡し場所にて
本山は草むらの中から様子をうかがっていた
車のエンジン音が聞こえ あわてた本山は肥溜め (こえだめ) に落ちて身代金の受け取りに失敗
本山茂久は小心者であった───
本山 「ち ちくしょう!! こんなところに肥溜めが!
うわわっ 糞だ!」
ある日の朝 道に停車していた車にて
女性 「・・・・・・?
見ない車ね どちらのかしら・・・?」
そして女性は車の中を覗いてみた
女性 「!!
た・・・大変だわ!! 警察・・・ 警察ッ・・・・・・」
誘拐から3日目の朝
路上に放置した車の中に殺害した雅樹ちゃんの遺体を残して本山は行方をくらました───
雅樹ちゃんの遺体はわらのようなもので包まれていた
再び 独房にて
本山の食事の時間でのこと
本山 「うわあああっ!! 虫だ! メシに虫が入ってる!!
ひいいいい!!」
看守 B 「落ち着け 虫なんか入ってない!!」
本山の精神状態が悪化したのは 昭和36年 (1961年) 3月
第一審で死刑判決が下った直後からだった
医務室にて
本山 「アンタ 俺に毒を飲ませようと言うんだな!!」
医師 「ほら私も飲みますよ 何でもないでしょう
毒じゃありませんよ」
医師は本山の目の前で薬を飲んでみせた
本山 「見たぞっ! 見たぞっ!
今すり替えたじゃないか───!!」
夜も幻覚や幻聴を訴えるため 自殺防止のために刑務官が泊まり込むこともあった
本山 「誰だ───ッ
あそこで誰かが俺を見てる!
誰だ あっちへ行け───!!」
そもそも死刑囚が ”バクレ” るのは
それによって刑の執行をまぬがれる可能性があるからだ
日本ではたとえ死刑が確定しても
死刑囚の精神の安定が保たれていなければ刑の執行はまずないのである
事実 こんな例がある
ピアノ騒音殺人事件 大浜松三
1974年8月
神奈川の県営住宅でピアノの音がうるさいと言って
階下の娘2人と母親を殺害する事件が起きた───
この事件の犯人である大浜松三は
1977年に自ら控訴を取り下げ死刑が確定したが
40年近く経った今も刑は執行されていない
それは大浜が心神耗弱 (しんしんこうじゃく)
あるいは拘禁性 (こうきんせい) ノイローゼにかかっているとみられているからだ
本山の症状はその後落ち着いたとされて審理は再開
昭和42年 (1967年) 5月25日
最高裁において死刑が確定した
昭和35年7月 大阪府布施市にて
雅樹ちゃん殺害後 逃亡した本山は 『山田』 と偽名を使い日雇い仕事などを転々とした後
大阪の町工場に住み込みで働いていた
工場の社員 A 「ほんまにええ人に来てもろうたな
器用で仕事の覚えは早いし 真面目やし」
工場の社員 B 「せやけど変わった人やで
休みでもまったく外出せえへんし この暑いのに銭湯にも1週間に1回しか行かんのやで・・・」
工場の社員 C 「節約して仕送りでもしとるんやろ」
本山は休みには部屋にこもって ある雑誌を手垢 (てあか) がつくほど繰り返し読んでいたという
その雑誌には犯罪者が罪を逃れるために犯行を否認し続けるという内容の短編小説が掲載されていた
また本山は逮捕に備え
見知らぬ男にそそのかされて事件に巻き込まれただけだ
という偽 (にせ) の手記も書いていた
工場での仕事中にて
ラジオ 「3時のニュースです」
本山 「・・・・・・」
ラジオ 「雅樹ちゃん誘拐殺害事件で指名手配されている本山茂久の消息は依然つかめず
警察は全力を挙げて捜索を続けています」
工場の社員 B 「恐いわァ・・・・・・!
この辺におったらどないしよう」
本山 「・・・・・・」
工場の社員 A 「こないな小汚いとこに来るわけないやろ
犯人は金持ちのボンボンやちゅう話や
逃げ切れん思うてとっくに自殺しとるわ」
工場の社員 B 「せやな あれから2ヶ月やもんな
せやけど そないなボンボンがなしてあんなむごいことしたんやろう・・・」
工場の社員 A 「わしら地道に生きとる人間にはようわからんよ
なあ 山田はん!」
本山はコクンとうなずいた
工場の社員 C 「何の話でっか?」
工場の社員 A 「うちには関係ないニュースの話や
ほれ 水ようかん食え よう冷えとるで」
工場の社員 C 「うわぁ いただきます!」
本山 「ごちそうさまでした」
工場の社員 B 「まだ休んどったらええに・・・」
本山 「いや 仕事が途中ですから」
そう言うと 本山はそそくさと立ち上がった
工場の社員 C 「山田さんの顔・・・ どっかで見たことあるんやけどなぁ・・・」
本山茂久は新潟県に広大な土地を持つ裕福な農家の長男として生まれた
学校の成績は常にトップクラス
東京の歯大生時代にダンス教室の講師をしていたAさんと知り合い学生結婚
2年ほど勤務医を経験した後 28歳で杉並に歯科医院を開業
同期の中でトップの開業だった
当時はまだ珍しかった自家用車を所有し
仕事も家庭も順風満帆 (じゅんぷうまんぱん) の何不自由ない生活───
ただし幸福だったのはそれからわずか2年ほどの間だった・・・・・・
大阪府布施市の銭湯にて
工場の社員 C 「くわ~っ 仕事の後の風呂は最高やね!
風呂嫌いの山田さんが信じられ・・・ !」
銭湯の壁には本山の指名手配のポスターが貼ってあった
工場の社員 C 「これや・・・ このポスターで見たんや!!」
逃亡から62日後
本山は同僚の通報がキッカケで逮捕された
取り調べの過程で本山の家庭事情が次第に明らかになっていった
妻とは別居中で離婚の話し合いはこじれにこじれていた
実は本山には愛人がおり その女性との間に子供まで生まれていたのだ
収入の大半を愛人に貢いだために生活は困窮 (こんきゅう)
妻の父から借りた医院の運営資金も愛人のために使い込んでいた
拘置所にはこの愛人が足しげく (あししげく) 接見に訪れていた
本山の症状がひどい時でも
この女性と会っている時だけはわずかに正気に戻っているように見えたという
女性は働いて子供を育てながら 本山にも甲斐甲斐しく (かいがいしく) 差し入れを繰り返していた
一方 本山の妻が接見に来ることは最後までなかった───
妻は本山の死刑が確定した1ヶ月後
本山に離婚を申し入れ さらに800万円の慰謝料を請求した
『女性自身』 より
本山は離婚を受け入れた
慰謝料の800万円は本山の母親が故郷の山林を売ったお金で支払った
何故実家にそれだけのお金があるのに 事件を起こす前に母親を頼らなかったのか
こうなる前に本山が恥も外聞 (がいぶん) も捨てて母親に土下座をしていたら・・・
昭和46年 (1971年:月日不明)
東京拘置所において本山茂久の死刑が執行された───
享年43歳
しかし不思議なことに これだけ世間を騒がせた事件にもかかわらず
何故か正確な執行の記録やその詳細がまったく伝えられていない
そのことについてジャーナリストの村野薫氏は著書の中でこう推測する
それだけ本山の執行が異常な状況下でおこなわれたということなのかもしれない
と───
『別冊宝島 死刑囚最期の一時間』 より
だが一方で 当時ひき逃げ傷害事件を起こして東京拘置所に収監されていた小田敏夫は
雑誌記事の中で本山のこんな最期の様子を目撃したと証言している
昭和45年 (1970年) 秋 【村野薫氏の記事より1年早い】
すでに死を覚悟していた本山は部屋をきれいに片付け 静かにその日を待っていた
10月半ばのある朝
迎えが来ることを悟った本山はひげを剃り 草色の背広を着て ”その時” を待った
果たしてその日 迎えは来た
サヨナラ ありがとう 元気で・・・・・・
本山は死刑囚房舎の仲間たちにこう言い残し
静かに刑場へと向かったという
『週刊ポスト』 昭和46年7月2日号所収 「私は死刑囚本山茂久・小原保の最期を見た」 より (要約)
いったい本山茂久の真実の素顔はどれだったのか・・・・・・
それはもはや永遠に ”藪 (やぶ) の中” である───