イメージ(3)
帰宅すると、いつものように時間が過ぎていく。薫はベッドに潜り込むと、すぐに心地よさそうな寝息を立て始めた。今夜は訊きたいことが山ほどあったのに、自分だけ先に眠ってしまうなんて、やっぱり薫は意地が悪い。私の気持ちはわかっているはずなのに、まるで弄ばれているみたいだわ。
強いイメージが大事とか、思い出すことが肝心とか言ってたけど、いくら考えてもピンとこない。確かに、病室の自分をイメージしたら、見えたことは確かだけど、自分を見下ろしていた。あれじゃ神様になったみたいだ。それに、思い出すというのはどういうことだろう。今は少し冷静になって、ブタの自分も思い出せるようになったし、病室の自分も思い出せる。眠った後に、別の世界に行ってしまうことも思いだした。それがコントロールできないだけだ。こんなことを繰り返している間に、私は脳死状態になって献体されるかも知れない。お母さんが承諾するとは思えないけど、真面目なお父さんは、娘の尊い意思を尊重するとか言って、お母さんを説得しかねない。そうなったら万事休すよ、どうにかして昏睡状態の私を目覚めさせたい。この天国の中継基地みたいなところからなんとかできないのだろうか。もし昏睡状態の私が死んだら、今の世界が私の世界になって、それで………きっと、フェイズバンクで色々体験して、それから、自分の気に入った場所に行って、赤ちゃんからスタートするのだと思う。これが生まれ変わりって言うことなのかも知れない。昏睡状態から目覚めたら、そしたら私は、今までのように俊介を追い回すかも知れない。どちらになってもいいような気もするけど、まだ色々未練があるような気がする。やっぱり生きて目覚めたい。でも、どうすればいいんだろう。思い出すって、他に何か大切なことがあるのかしら………。眠くなってきた。このまま眠ればあちらの世界で目が覚めるのだろうか。
「おはよう、遅れるわよ、急いでね」
薫? 今のは薫の声だわ。
「ここは、ここよね」
「そうよ、ここはここね」
薫は笑いながらリビングに降りて行った。身体は自動的に動き、着替えを済まして薫の後を追った。今日もいつものように会社に出かけ、退屈な仕事をこなし、絵里子と昼食にでかけるのだろう。飼い慣らされた犬の日常と変わりないように思える。ここには時間も無ければ、大した制約も無い。フェイズバンクのような楽しみもある。それに、この世界がホントに私の書いたシナリオだとしたら、もっと楽しいことがあるような気がする。
いつも通りに出社して、いつも通りの日常が始まった。絵里子は隣でカモミールティーを飲みながら仕事を始めている。私の机上にも何枚かの書類が置かれ、どうやら今日の仕事らしい。面倒臭いと思った日は、面倒臭い一日になるし、大したこと無いわと思った日は、大したことの無い一日になる。自分のイメージ通りになるみたいだ。
ちょっと待って、眠っても世界は変わらなかったのはどういう訳なの? 今までは眠ると勝手に別の世界で目覚めていたのに、変わらなかったのは初めてだわ。なんだか、当たり前のような気がしていたけど、これってもしかして………。あっちの世界の私が死にかけてるとか? 弱くなってるとか? それで戻れないの?
「薫、私の考えていることわかっているんでしょう、早く来て教えて! 今すぐよ」
心の中で薫に呼びかけてみた。きっと何気ない顔をしてここに来るはずだわ。そう思いながら、さり気なくドアの方を注意してみていた。しばらく待つと、ドアの向こうに女性の人影が見え、薫だと思って席を立つと、入ってきたのは絵里子だった。
「薫を見なかった?」
食いつくように訊いた自分の顔が少し恥ずかしい。
「え、薫って誰?」
絵里子は、ポカンとした顔で私を見ている。
「誰って、私の姉よ、知らないはず無いでしょう」
私が怒ったように言うと、
「一美、どうしたの、大丈夫? 一美に姉がいたなんて一度も聞いたこと無いわよ」
と絵里子は私の目を覗き込むようにして言った。絵里子がふざけていないことは表情を見ればよくわかる。これ以上訊いても変に思われる。私がふざけたことにしてその場を繕って席に戻った。絵里子も同じように席について仕事を始めたが、時々私の様子を盗み見ているのがわかる。
今朝、一緒に出勤した薫は、もう絵里子の記憶の中には存在していないようだ。フェイズバンクのことを思い出した。確か、別の世界に行ってしまうと、突然消えて、人の記憶からも綺麗に消えてしまうとか言っていた。私の記憶だけ残して、薫はどこに行ってしまったんだろう。私の案内人とか言いながら、一人で行くなんて酷い、酷すぎるわ。私はこの世界で為す術も無く、一人で過ごさなくちゃいけないの、確かにこの世界は私に似合いだと思うけど、だけどやっぱり元の世界に戻りたい。
「絵里子、ちょっと出かけてくるわね」
そう言って席を立つと、後から絵里子が追いかけてきた。
「一美、これを持って行って」
絵里子はそう言って私に小さな包みを手渡した。
「これ何?」
私は手渡されたものを見ながら絵里子に訊いた。
「なんでもないわ、ただ持って行って欲しいって思っただけなの。フェイズバンクを利用するとね、時々不思議な感が働く時があるの。薫って、もしかしたらいたかも知れないって気がしたわ。だから、持って行って、お願い」
絵里子はそう言うと席に戻り、私だけにわかるように小さく手を振った。