<奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。・・・人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。(5.7節)>
当時、戦争に勝った国は相手の領土をはじめすべての物を奪った。田畑、食べ物、財宝、人までも戦勝国のものとして略奪された。捕囚となった人々は、その才に応じて値がつけられ市場で売買された。側女として、子守として、田畑で働く者として、学問に秀でた者は執事として売られた。
奴隷の所有者を示すために主人の中には自分の奴隷に首輪を強要する者もいた。首輪には「私を○○(主人の名)に戻して下さい。私は逃亡奴隷です」と書かれたものもあった。首輪をつけた彼らは自由人のように仕事を自分で選ぶことは不可能であった。
彼らが主人を選ぶことは出来なかった。虐げられ、屈辱を受けそれでも主人の命を聞かなければならなかった。権力を背にした主人にへつらい、うわべだけで仕える自分を、自分自身が嫌い、希望は見えなかった。その彼らに「主人に従いなさい」とパウロは勧める。
そして「人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい」と続ける。主人も神に仕える者であると。
町内のお茶会での会話はいつからか、姑との愚痴から、お嫁さんの話に変わってきた。人との付き合いはどうしようもない。そのような時の結論は「相手が欠点を改めることなんて・・・無理な話よ、自分が考えを変えないとねぇ」である。
「主人と奴隷の関係は社会の構造のことであり、主人も奴隷の身にある者も同じ主を仰ぎ、主にとってどちらも大切な神の子どもなのだ」とパウロは訴えた。
これと似た言葉で「権力を持つ者(王)に仕えなさい。彼らのために祈りなさい。彼らは主の赦しのもとに立っているのだから・・・」というのがあって、ヤスクニ訴訟や、沖縄問題で活動しているUさんの心を騒がせる。
民主主義のもと選挙を行い選んだ為政者たちに否を突き付けてばかりいるのはよくないが、どうしてこんな政治になるのだろうかと思っていたら、選挙制度そのものが誰かに有利になるように仕向けられていたんだ。すべての国民が目を覚ましていなければならない。
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