<キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。(21節)>
パウロの勧めは、更に身近な問題へと進んでゆく。当時、家族のおのおのの地位は定まっており、権威への服従が要求されていた。パウロはこのような家の権威に対して、夫婦が仕え合うことの大切さを説いた。
パウロはコリント書で、みだらな行いを避けるためにと結婚を勧め「妻も夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、夫が妻がそれを持っている」と記している。そして、「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物を頂いているのですから、人によって生き方が違います」と続けている。
当時の結婚制度を今の価値観で図ることは出来ない。夫を失い路頭に迷う母子がいたら、経済的に力を持つ者はそのような女性を妻として家に入れ養わなければならなかった。一夫多妻を社会が求めていた。女性は半ば奴隷のような地位で夫に仕え家に仕え子を産んだ。
疎まれたり、子をなさない妻は捨てられた。男女を対等なものとして見ていなかった。そのような中、パウロが「互いに仕え合いなさい」と勧め「夫は自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれをもっている」と説いたのは画期的なことであった。
しかし、今を生きる者はこの言葉が「上から目線」に思え、簡単に受け入れられない。教会の婦人会は、イベントがあればお弁当やお茶菓子の準備、病気のお見舞い訪問をしたりする。しかし若い人から「ここに差別の温床あり」とする声が上がり崩壊しつつある。
「わたしたちは、キリストの体の一部なのです。『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる』この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたもそれぞれ妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」と5章が結ばれる。
私たちの教会で長年、結婚式で使われてきた箇所だが、この頃は用いられなくなった。牧師の結婚観が変化したのかもしれない。
キリストと教会の「神秘」、夫と妻の「神秘」な関係「わたしたちはここに、体全体を含めた交わりがキリストの光のもとで、積極的に肯定されていることを読み取らなければならないでしょう」と渡辺牧師は結ばれるが、難しくて読み取れない。
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