米倉誠一郎/著
出版社名:東洋経済新報社
出版年月:2017年5月
ISBNコード:978-4-492-37120-6
税込価格:2,160円
頁数・縦:313p・20cm
幕末から明治期において、日本の発展を促した政府、企業家たちの創造的対応にフォーカスして近代史を顧みる。
【目次】
第1章 近代の覚醒と高島秋帆
第2章 維新官僚の創造的対応―大隈重信志士から官僚へ
第3章 明治政府の創造的対応―身分を資本へ
第4章 士族たちの創造的対応―ザ・サムライカンパニーの登場
第5章 創造的対応としての財閥―企業家が創り出した三井と三菱
第6章 科学者たちの創造的対応―知識ベースの産業立国
終章 近代日本の創造的対応を振り返る
【著者】
米倉 誠一郎 (ヨネクラ セイイチロウ)
1953年東京都生まれ。一橋大学社会学部、経済学部卒業。同大学大学院社会学研究科修士課程修了。ハーバード大学歴史学博士号取得(Ph.D.)。1995年一橋大学商学部産業経営研究所教授、1997年より同大学イノベーション研究センター教授。2012~14年はプレトリア大学GIBS日本研究センター所長を兼務。2017年4月より一橋大学イノベーション研究センター特任教授、法政大学大学院イノベーション・マネジメント研究科教授。
【抜書】
●風説書(p21)
幕府は、風説書という形でオランダ、清、朝鮮の情報を仕入れていた。
『和蘭風説書』……対日貿易の見返りとして、オランダ商館長より、江戸幕府に提出された。世界情報の報告書。オランダ語の原文も提出させた。1641~1854年、毎年提出された。
『別段風説書』……アヘン戦争(1840~1842年)以降、『和蘭風説書』に加えて、より詳細な世界報告を要求した。長崎で翻訳されたもの、江戸で翻訳されたもの、原文の3種類が残っている。
『唐国風説書』……清国との貿易によって、清国側によるアヘン戦争の顛末も入手。
幕府は、アヘン戦争に関する情報を単一の情報源に頼らず、三つの、しかも中国とオランダという対極的な複数のソースから仕入れていた。
●通商和平(p41)
開国に対する高島秋帆の考え方。1855年「海外交易の建議(嘉永の上書)」による。
① 日本のような小国は海外貿易によって国を建てることが重要であり、有用なものを無用のもので替える、というしたたかな交易法である。
② また、海外の良いものは積極的に取り入れて学び、自国の足りない部分を補完すべきである。
●自己矛盾(p77)
〔 明治維新は、封建体制の末端に所属した下級士族によって主導された点で、ブルジョワ革命とは異なる。封建体制を打倒したその主体が、打倒すべき封建制の一部だったからである。したがって、明治維新政権とは近代化が進むにつれ、いずれ自己否定をせざるを得ないという自己矛盾をはらんだ体制であった。〕
明治維新は、先進的な下級士族に主導された「ブルジョワ革命」と、尊王攘夷を掲げた「絶対主義革命」の両者が同時並行した日本独自の革命形態。
●金禄公債証書(p85)
幕藩体制下で支給されていた俸禄(年俸)を一定の計算式で数年分に合算し、その総額を通常年7%の利付公債として士族に支給した。
大名とその家臣団約19万世帯が対象。
秩禄処分が、封建体制における身分の「有償」撤廃であった。イノベーティブな点は、旧士族の特権と身分を一時金で買い取ったこと。
●笠井順八(p94)
1835-1919年。旧萩藩士、小野田セメントの創業者。下級士族有田甚平の三男として生まれ、7歳の時に笠井英之進の養子となる。
1848年、再建された藩校明倫館に入学、藩校席次第2位の好成績を修める。しかし、「身分が低い」ことを理由に、成績上位3名による藩主へのご進講から外される。憤りを覚え、自主退学。独学で学問を続ける。
ペリー来航後、長州藩は相模湾三浦岬の沿岸線警備を担当することになり、笠井も江戸に上る。江戸藩邸で財務経理官として2年ほど勤務。
維新後の藩政改革で、会計局庶務方助役となり、旧藩財政の残務整理と藩札整理に当たる。
1880年(明治13年)、士族13名の同志を募り、セメント製造会社を設立する。「士族就産金拝借願」を山口県に提出し、士族授産金を受ける。その担保として士族たちに発行された七分利付金禄公債を抵当に差し出す。資本金88,000円の株式会社を発足。金禄公債額面50円に対して1株を発行。
中下級士族たちの「士族の士族による士族のため」の創業。
株式会社の形態……現金出資ではなく、公債出資という変則形態。実際には、公債所有権は出資士族に残したまま、それを担保に借入金をして資本調達をする形をとる。その結果、公債から生じる年7%の利子は株主に配当され、事業が継続している限りは公債からの収入が保証される。
●陸軍大阪砲兵工廠(p107)
小野田セメントは、工場建設において、主要機器は陸軍大阪砲兵工廠に発注した。発注にあたり、工部省赤羽工作分局、海軍築地兵器製造所、工部省兵庫造船局にも見積もりを出したが、大阪砲兵工廠が最も安価であった。
大阪砲兵工廠は、当時、多数の民間用蒸気機械や旋盤などを製造していた。発展していなかった民間の機械生産を代替。日本の工業化を切り開く先達となった。
●2500人(p124)
第二次世界大戦後、GHQが実行した「経済人パージ」において、第一線から追放された企業のトップ経営者は、財閥傘下企業約500社の2,500人近くにのぼった。
●三井高利(p128)
三井の創業者。1622年(元和8年)、伊勢国松坂の地方商人の四男として生まれた。
1673年(延宝元年)、50歳の時に、江戸に出て越後屋と呼ばれる呉服店を開業した。
このころ、江戸の伝統的な呉服屋は、基本的に定価をつけず、馴染みの客を店内に呼び込み、個別交渉による掛け売りで商売を行っていた。顧客は信用のある武士や豪商。
越後屋は、「店前売り」と「現金安売り掛け値なし」の定価販売によって中産階級の人気を博した。開業10年後の1683年には、大規模な両替業も営むようになる。呉服店、両替商とも幕府御用達となる。
高利死後に三井家を継承した三井高平は、高利の残した膨大な遺産を分割せず、共有財産として相続管理することを決めた。1710年、「三井大元方」(ある種の持ち株会社)を設置。9つの家族(のちに11家族)から構成され、呉服屋や両替商の経営を共同管理し、事業ばかりか家族のあり方も厳しく統制する組織だった。「三井家家憲」も制定。年に2度、事業からの収益を各家の持ち分に応じて配当。
●三野村利左エ門(p131)
三井は、幕末、創業以来初めて、三野村利左エ門(1821-77、当時は美野川利八。出羽庄内藩出身)という新興商人を番頭に引き抜いた。
三野村は、明治政府が樹立されると、維新政府への財政支援を開始した。まず、太政官札の流通を請け負う。ほかにも、政府の金融、両替、貿易における重要な仕事を次々に請け負う。大蔵省(会計官)の為替方御用、貿易商社代表、為替会社代表、伊豆七島産物売り捌き、北海道物産販売促進、など。
1876年、三井銀行設立。その際、不振だった呉服業を分離。三越家という分家を創設し、そこに譲渡。三井組を解散する。資本と経営の分離を促す。
この改革を通じて、三野村は三井大元方総括に任命され、三井家家政についての全権を託された。
●三菱商船学校(p179)
1875年11月、隅田川河口の霊岸島に設立。明治政府は、三菱に船舶を譲渡する条件として、船員養成学校の設立を命じた。台湾出兵で、船舶運航技術の重要性を認識したため。
1888年、東京商船学校として三菱から独立。
●多角化戦略(p195)
〔 財閥とは、近代化初期に生じる経営資源(特に人材)の希少性に俊敏に対応し、その多重利用を通じて事業の多角化を達成した組織的イノベーションの結果であった。したがって、その中心業務は政府の財政機能を補完するような金融・通商・海上運輸業務、あるいは資源関連の鉱工業や官営工場によって移植された事業の払い下げ分野に集中した。
しかし、日本の近代化は、いわゆる財閥が担った金融・海運産業、鉱工業部門や移植産業に続いて、輸入代替を目標に国産化された産業あるいは知識ベースで創出された新産業が出現することでさらに進展した。旧財閥の経済活動の限界を埋め、重化学工業部門における新産業創出を担ったのが、いわゆる新興財閥であった。〕
●芋蔓式経営(p258)
理研コンツェルンは、大河内正敏の主導のもと、芋蔓式経営を行った。
芋蔓式経営……大河内が、ドイツのアルコール製造業者のビジネスモデルをもとに考案した経営手法。ドイツのアルコールは、芋を原料にしている。芋農家を後方統合し、芋の副産物として出る蔓や葉を飼料として養豚業を営む。さらに、豚を加工して酒のつまみとなるソーセージを作る。本業のアルコール製造と補完関係にある農業、養豚業、食品加工業といった具合に多角化していくビジネスモデル。
(2017/9/16)KG
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