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風に舞う女王様 Ⅰ

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   風に舞う女王様  うちの姉貴はどケチだ。  払わなくていい金は絶対払わない。払うべき金は、なんだかんだ理由をつけて支払いを避けまくる。近くにカモ――つまり俺――がいれば、そいつに支払いを押しつける。  社会人のくせに。教師のくせに。姉貴のくせに。  何かというと、姉貴は俺にたかってくる。高校生の俺に、だ。 「――風が荒ぶっている」  うつろな目をした夏夜乃(かやの)先輩が、窓際でそうつぶやくのが聞こえた。  部室は旧校舎の四階で、窓のすぐ外に銀杏の木の先端が見える。銀杏は強風にあおられて、激しくヘッドバンキングしていた。ごーごーとわめく風の音に加えて、さっきから窓ガラスがガタガタとうるさい。旧校舎は立てつけが悪いんだ。 「荒れ狂う風の精霊たち。胸をかき乱す天空の咆哮。これはもはや風というより、嵐」  熱にうかされた夢遊病患者みたいな口調で、夏夜乃先輩が芝居がかった台詞を吐く。 「始業式、新入部員、そして嵐。偶然にしては出来すぎている。――これは恐らく、暗示。不吉の前兆。何かが始まろうとしている。今、この瞬間に」 「まーた始まったよ。電波女の妄言が」  夏夜乃先輩のオカルトめいた発言に、我らがオカ研会長殿が噛みついた。 「今日が始業式なのは、今日が九月の頭だからだろ。でもって新しい部員が入ったのは、今日が始業式で区切りがいいから。それと、あいつは一学期ずっと病欠してて、今日復帰するから。偶然もクソもないじゃん。何が不吉の前兆だよ。アホくさ」  二人の論争に巻きこまれないよう、俺はさりげなく距離を置くことにした。意味もなく携帯をいじくり、電波が悪いふりを装って、椅子ごと部室の隅に移動。 「だがしかし、この嵐が異常なのは確か。台風でもなく、こんなにも空は澄み渡っているというのに。ただ風が、風だけが猛り、吠えている。そう、これはまさに天変地異」 「そりゃそーだけど、でもそういう日だってあるだろ。ただの気象現象じゃん。精霊とか暗示とか、頭おかしーだろ」  ――外の異常気象とは無関係に、室内では見慣れた日常が繰り広げられていた。  二年生のオカ研副会長・夏夜乃 未亜(みあ)先輩が、何やらオカルトっぽいことを口にする。現実主義者の一年生、オカ研会長・柄沢 緋色(からさわ ひろ)が、それに真っ向から反論する。  よく考えるとおかしな構図だ。けど、一学期にオカ研が発足してからというもの、俺にとってはすっかりおなじみの光景になっていた。 「みゃーだって、新人入って喜んでたじゃん。『いざ歓迎の宴を』とかって浮かれてさー。今さら反対すんなら、あたしが書類書いてる間に止めりゃいいじゃん」 「反対はしていない。新入部員は歓迎すべき。彼女のおかげで、我らオカ研は五名となり、晴れて同好会から部に昇格できる」 「“オカ研”じゃねーって。“超常現象研究会”。あ、違う。“超常現象研究部”だ」 (ああ、そっか。今日からこの二人、部長と副部長になるのか)  携帯をもてあそびながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。  二学期の初日、始業式。この日は朝からとんでもない強風だった。  どのくらいの風かというと、バスが徐行運転を強いられるほど。乗ってる間ずっと、俺はバスの横転に備えて、脳内でシミュレーションを繰り返していた。  うちの学校はバス通学がほとんどだから、徐行運転の影響は大きかった。始業時間には、クラスの半分も集まっていなかったらしい。らしい、というのは、俺も遅刻組で直接見たわけじゃないから。  結局、始業式の開始は一時間ほど遅れた。昼前には帰れる予定だったのが、ホームルームが終わった時には十二時をすこし過ぎていた。  やっと帰れる、と思ったのもつかの間。  会長、じゃない、部長にメールで呼び出された。“重大発表がある”とかいう内容で。初日から部活とかめんどくせー、と思いながら、俺は重い足取りで部室へ向かった。  そこで、新入部員を紹介された。 「たっだいまぁ~っ」  扉が開いて、無邪気な声が響き渡った。  それまで部室に漂っていた険悪な空気は、その瞬間に消え去って、代わりにピンク色の能天気オーラがこの場を支配した。  噂の新入部員は、居心地の悪そうな顔をして、扉の前で立ち止まったまま動こうとしない。一方、ピンク色のオーラの発生源は、遠慮なしにのこのこと俺のところにやってきて、ぐいっと顔を近づけた。 「な、なんすか?」 「ねえねえねえねえ八雲(やくも)くん」  暮士田(くれしだ)先輩が前屈みになると、ただでさえ巨大な胸がことさら強調される。それがブラウスごしとはいえ、至近距離でゆらゆら揺れているのだ。  健全な青少年にはたまったもんじゃない。俺は目のやり場に困った。  暮士田あきり先輩は二年生。オカ研のマスコットというか、ペットというか、そんな感じの人だ。この人の放つピンク色の幸せオーラは、色気よりもかわいらしさを増長させ、浴びた者は例外なく癒される。 (けどあんまり近づかれると、やっぱエロさが際だつよな。なんつーか、ブラウスがはち切れそうになってるし、甘ったるい匂いも――) 「マキちゃん先生、いなかったよ?」 「ひゃい? ……ん、こほんこほん」  声が裏返りそうになるのを、咳払いしてごまかした。 「職員室行ったんだけど、マキちゃん席にいなかったんだよ。ねえ八雲くん、マキちゃんから何か聞いてない?」 「いえ、別になんも」 「もう帰ったんじゃねーの? ほら、今日って始業式だけだろ」 「教師はすぐには帰らない。生徒が考えているよりもずっと、教師はすることが多い」  窓際にいた部長と副部長が、口論をやめてこっちにやってきた。 「昼飯に出たんじゃないすか。今ちょうど昼だし、今日購買やってないですよね」 「マキちゃん先生、お弁当じゃなかったっけ?」  暮士田先輩が首をかしげる。たったそれだけの動作で、ブラウスの胸がぷるんと揺れた。俺は視線をそらすのに必死だった。 「あいつ、早起きできた時しか弁当作らないんですよ。今朝はどうだったかな」  そういや、今朝は姉貴の顔を見てなかった気がする。 「始業式の会場でも、神縁(しんべり)先生の姿は見られなかった」 「マジで? マキ先生、今日休み?」  部長と副部長が、尋ねるように俺を見る。 「いや、だからなんも知らねーって」 「使えない弟だなー。顧問の動向くらい調べとけよ」  部長が俺を睨みつける。ひでー言いがかりだ。 「姉貴がいつ、どこで、何してるかなんて、いちいち知らねーよ」 「キミは朝、姉上と共に登校するのではないのか?」 「あいつ、通勤は車ですから」  夏夜乃先輩の問いに、俺は首を横に振る。姉弟でそろって登校とか、冗談じゃない。 「んー、まあいいや。んじゃ神縁、これ」  部長はとまどい顔の新入部員から紙切れを奪い取って、俺に差し出した。 「帰ったら、マキ先生に渡しといて。入部届と、部活動の申請用紙」 「いいけど、あいつ受け取んねーぞ。『仕事を家庭に持ちこむな』とか言って」 「あの、私、明日でもかまいません」  それまで黙っていた新入部員が、遠慮がちに口を開いた。 「私そんなに急いでいないですし、私のことで八雲くんにお願いするのも申し訳ないです。明日、私から先生に提出しておきます。正式な入部は、明日からにしましょう」  新入部員こと吾領 玲奈(ごりょう れいな)は、部室を一歩入ったところに留まって、そこから奥へは入ってこようとしなかった。自分はまだ部外者で、正式な部員ではない――と、そう態度で主張してるみたいだ。 「ん……まあ、あんたがそう言うなら、それでもいいけど」  部長は渋々ながら、紙切れを吾領に返した。 「けど、どーせなら二学期初日から昇格したかったなー。キリいいじゃん」  どうやら、部長――じゃない、まだ会長――は、一刻も早く部長になりたかったらしい。 「部の承認を受けると、生徒会から部費が支給される。部員一人につき四千円」  と、副会長が口を挟む。 「年度の途中で承認を受けても、差額を日割りで計算されるようなことはない。一人四千円、五人で二万円、正確に支給される。申請が一日遅れたからといって、嘆く必要はない」 「んなケチくさいこと言ってんじゃ……はぁ、もーいいや。今日はもう解散」  俺は教室にカバンを置きっぱなしだった。皆とは部室の前で別れた。  カバンを回収して昇降口を出ると、いきなり吹っ飛ばされそうになった。 「うおっ?」  砂埃が目に入りかけ、慌てて腕でカバーする。  精霊がどうのって言う気はないけど、夏夜乃先輩の言うとおり、こいつは確かに嵐だ。風の圧力を全身に感じる。  流れるプールの中に、頭までつかった感覚。空は晴れてて雲ひとつないってのが、逆に不気味だった。  夏の日差しが脳天を焼く。風のおかげで暑さが和らぐ、ということもなく、熱風にあおられて不快さが増すだけだ。まったく、勘弁してもらいたい。  斜めに傾きながら校門に向かった。と、胸ポケットの携帯がバイブした。 「もしもし」 『弟よ。始業式はもう終わったかね?』 「もうホームルームも終わってるよ。そんなん俺に聞くまでも……」  そこで思い出した。この通話、発信元は姉貴の携帯じゃない。家だ。 「……お前、家で何やってんだよ」 『ワイドショー見てる。すごいねー風。徳島で樹齢なん百年だかの木が倒れたって』 「んなこと聞いてんじゃねえ」  夏夜乃先輩が言ってたように、教師は案外やることが多い。始業式が終わったからって、とっとと帰れるわけじゃない。まともな教師なら、午後も仕事があるはずだ。  まともな教師なら。 「お前、またサボったのかよ。いくら担任持ってないからって、始業式には出とかないとまずいんじゃねーのか?」 『なーに言ってんの。こんな嵐の日に仕事行くとか、常識で考えてありえないでしょ』  俺の知らない間に“常識”の定義が変わったらしい。――ちなみにどうでもいいことだが、姉貴の担当は現代国語だ。 「強風くらいで休むとか、何考えてんだよ。お前はカメハメハの女王様か」 『ぶっぶー。それトリプルで間違ってる』  ふふん、と姉貴は鼻で笑った。電話の向こうのドヤ顔が、目に浮かぶようだった。 『ひとつめ、天気によって休むのは女王じゃなくて子供たち。ふたつめ、子供が休むのは雨が降った時で、風の日には遅刻するだけ。みっつめ、そもそもあの歌の王様はカメハメハじゃなくって――』 「だったらお前は子供以下じゃねーか」  こんな奴、南の島まで吹き飛ばされちまえばいいんだ。 「んで、何なんだよ。用がねーなら切るぞ」 『あー待ちたまえ弟よ。切らないで。用はあるんだ』  そう姉貴が言ってから、すこし間があった。 『職員室にね、プリント置いてきたの。私の机の上、ファイルにはさんで』 「で?」 『明日の午前の授業で使うから、コピーしといて。四十かける三クラス分で――』 「朝イチでやれ」切った。  ったく、あいつ何様だ。弟に仕事やらせといて、自分は家でテレビ見てるとか、正気とは思えない。それが社会人のやることか。ふざけやがって。  俺は怒りにまかせて、足早にバス停まで歩いた。頭に血が上っていた俺は、周りがよく見えていなかった。  バス停の近くまで来て、ようやくその姿に気づいた。 「あ、八雲くん」  吾領玲奈は、風でばたつく髪とスカートを、手で必死に押さえていた。 「風、強いね」  少し照れたような笑み。 「……おう」  バス停には、他に誰もいなかった。俺と吾領だけ。  ――そうか。この事態は予想しておくべきだった。  この時間、バスは一時間に二本だけ。学校を出るタイミングは大差ないんだから、同じバスに乗るのは必然と言える。こんな中途半端な時間に帰宅する生徒も、そう多くはない。  そして、吾領の家は俺の家の近所だ。バスの路線も方角も、降りるバス停も一緒。 (だからって、吾領と二人きりってのは、ちょっとな……)  決して嫌なわけじゃない。嫌なわけがない。  嫌ではないんだが、けど心の準備はしておきたかった。 「八雲くん、朝は何時のバスに乗ってるの?」  顔にかかる髪を指で押さえながら、吾領が聞いてくる。  笑顔が眩しくて直視できない。俺は視線をそらした。 「私、普通に登校するのは今朝が初めてで、早く着きすぎちゃったの。学校までどのくらいかかるか、わからなくって。ほら、バス通りって朝は混雑するでしょう?」 「あーっと、朝は八時五分のバス乗ってる。少し早いけど、そのバスなら座れるから」 「そうなんだ。じゃあ、私もそうしようかな」  そうなると、俺は毎朝、吾領と一緒に登校するわけだ。 「……」  うれしくないわけじゃない。うれしくないわけがない。  わけがないん、だが。 「? どうかした、八雲くん?」 「あ、いや」  答えにつまっていると、携帯が振動した。  これでこの場をごまかせる、ありがたい、と思った。姉貴の声を聞くまでは。 「もしもし」 『弟よ。もうバス乗っちゃった?』 「まだだ。今バス停」 『よしっ、ラッキー♪』  ――嫌な予感がした。 「何がラッキーだよ。何の用だ。コピーは断るぞ」 『今度は違うわよ。ねえ、駅前に行ってビデオ借りてきて』 「あぁ?」 『お姉ちゃん暇でさー。テレビも面白いのやってなくてさー。なんか適当に、面白そうな映画借りてきてよ。趣味が悪くてもバカにしないから』 「嫌だ。こんな嵐の日にわざわざ駅前寄りたくない」  駅に寄れ、ということは、つまり逆方向のバスに乗れ、という意味だ。冗談じゃない。 『んなこと言わないでさー。ワガママだなぁ、もう』 「ワガママ言ってんのはどっちだよ。断る。金輪際断る」  通りの向こうを見ると、ちょうど駅前行きのバスがやってくるところだった。 「手遅れだったな。堀尾駅行きはもう行っちまったよ」 『急げばまだ間に合うって。さあ弟よ走れ! レッツゴーっ!』 「俺は犬か。暇ならゴンと遊んでろよ」 『あ、ひょっとしてバス代が心配? だいじょーぶ、ちゃんとお姉ちゃんが払ってあげるから。もちろんレンタル代もね♪』  何あたりまえのことを偉そうに言ってんだ、この女は。 「それで思い出した。お前、この間俺が立て替えたピザの金、まだ払ってないよな?」  ぷつん。通話は切れた。 「……くそ女」 「今の電話、お姉さん?」  思わず漏らした悪態は、吾領には聞こえなかったらしい。強風が幸いだった。 「ああ。駅前に寄れとか言ってきた。冗談じゃねーっつの」 「お家から? お姉さん、今日はお休み? 病気なの?」 「いや……」  ある意味、病気と言えるかもしれない。けど身内の恥をさらすようで、「サボりだよ」とは言いづらかった。 「あっ」  吾領が顔を上げて、小さく叫んだ。  視線を追って振り返ると、駅前行きのバスが通り過ぎるところだった。最後尾のガラス越しに、暮士田先輩が満面の笑みで手を振ってる。そんな暮士田先輩を、会長と副会長が引き気味の苦笑いで眺めていた。 「うふふっ」  吾領が笑って手を振り返す。反射的に、俺も同じことをしていた。 「暮士田先輩、素敵な人だよね。優しいし面白いし、話してると気持ちが明るくなる」 「まあ、そうかな」  その見識に異論はないが……少しばかり、常軌を逸している気がしなくもない。 (いま暮士田先輩、膝で座席に乗ってたよな。後ろ向きになって)  今どき小学生でもやらんだろう。会長たちの引きつり笑いも納得だ。  遠ざかるバスの後ろ姿を見送っていると、入れ違いに逆方向、つまり俺たちが乗るべきバスがやってきた。 「あー、やっぱバス遅れてんな」  吾領と話してて気づかなかったが、バスは十分ほど遅れていた。まあ十分の遅れなら、今朝よりはだいぶマシだ。 (続く)


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