『消えた名家・名門の謎』 歴史読本編集部(編) 2012/02 日本の名家の興隆や衰退を、名家毎にまとめた本。 名家・名門に関する最初の制度は、氏(うじ)・姓(かばね)を基本とする氏姓制度である。氏は共通の祖先を持つと信じる人の血縁集団。姓は氏集団の序列を示す呼称。臣・連(むらじ)・君・直(あたい)・造(みやつこ)・首(おびと)・村主(すぐり)・史(ふひと)・忌寸(いみき) など。 氏姓制度は時代に合わなくなり、推古天皇は603年に「冠位十二階」を制定する。大化の改新では647年に「七色十三階」その2年後に「冠位十九階」、664年、685年にもさらに多くの冠位が増設される。 そして701年「大宝律令」の制定により、律令政治の官位・官職制度が整う。このとき官位は正一位、従一位・・・と続く三十階。官職は当初は二官八省。次第に政務が捌けなくなり、新たな「令外官(りょうげのかん)」が設けられた。摂政、関白、中納言、征夷大将軍などが令外官である。 官位は三位以上を「貴」、五位(従五位下)以上は「通貴」と呼ばれ、ここまでが「貴族」とされた。貴族は律令制にあっても世襲であった。この官位・官職制度は明治維新で廃止された。 貴族の中でも名門とされるのが5摂家。近衛、九条、二条、一条、鷹司。これに続くのが「清華(せいが)家」9家。「大臣家」3家。などである。 武家の時代になると、国もち大名で従五位下、徳川御三家などは従四位下などに任じられた。 明治に入り公家や諸侯を「華族」とする制度ができた。公爵は臣籍降下した皇族、摂家、将軍家。侯爵は清華家、御三家、15万石以上の藩主。伯爵は御三卿、5万石以上の大名。子爵は公家、その他の大名。男爵は新たに華族に列せられた者。渋沢栄一は例外的に子爵とされた。この制度は第二次大戦終了で廃止された。
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