照る日曇る日第635回
「蓼科日記」の原本は昭和二九年八月、小津が初めて蓼科高原の野田の別荘「雲呼荘」を訪れた日から書き始められ、昭和三八年一二月の小津六〇歳の誕生日の急死を経て昭和四三年九月野田の死去までの一四年間大勢の人々に依って書き続けられた全一八冊の山荘録であるが、本書はそのおよそ六分の一の抄録である。
小津は確かに偉大な映画監督だったが、その映画を根底から支え続けてきたのが野田高梧という偉大な脚本家だった。小津よりちょうど10歳年長の野田は、単なる共同のシナリオライターというにとどまらず小津を人間的にも芸術的にもしっかりと同盟し、領導し続けてきた一心同体のベスト・パートナーであった。
この二人を中心に、雲が人を呼び寄せるがごとく「雲呼荘」に集った数多くの友人、作家、有名俳優、監督、プロデューサー、撮影・美術監督などの映画関係者、親戚の人たちが思い思いに書きこんだ日記、メモ、寄せ書き、イラストなどをつらつら眺めていると、強くそのことが思われる。
野田小津のコンビが「東京暮色」「彼岸花」「浮草」「お早よう」「秋日和」「小早川家の秋」「秋刀魚の味」「青春放課後」を相次いで生みだした「雲呼荘」は、まさしく当時の映画界の梁山泊、日本映画創作の最前線だったのである。
ところでこの日記の中で、小津は自画像を悪戯描きしているが、その絵に付された自筆の略歴の最後は「六〇歳某月某日酔人窮死するか」となっており、その予言の的確さに驚かされる。
また彼の最晩年には、二人の美女が愛人として出没していることも特筆されよう。数多くの映画人が蓼科の地を訪れたなかにあって、彼の永遠の恋人と称された原節子がいちども「雲呼荘」に足を踏み入れなかったのもむべなるかな、というべきか。
小津映画の秘密をふと垣間見る野田高梧別荘日誌 蝶人
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