以前、新聞で知った本です。
タイトルから自分と重なるようで興味を持っていました。すごく読み応えがありました。
自分がずっと思ってきたことが証明されたみたいで、うれしかったし、救いにもなりました。(もっと早く出会いたかった)。
副題は「親は子どもに何をしたか」で、教育という名のもとに、子どもに対して行われていることの、精神分析の本です。(教育の批判も)。
この本では、ある特定の人格を問題にしているわけではなく、誰にでもあてはまる、"両親と子ども"という一つの状態や状況について"知らせる"というスタンスで書かれているのが共感します。
最初は「闇教育」について。
自分たちの両親や祖父母の代が受けた教育の基本にある、義務、従順、自己犠牲、献身といったものに潜む残虐性について、多くの引用を用いて書かれています。
子どもの頃に受けた精神的外傷は、誰からも傷とは認められず、両親に対する尊敬や感謝を強要され、自分がされたことを忘れてしまいます。
でも、その感情は消滅したわけではなく、大人になって、蓄積された怒りを他の人間、または自分自身に投射することになるのです。
次の章の「闇教育」を受けた三人の物語が、興味深かった。
子ども時代に受けた精神的外傷は、必ず後で社会に大きく反映されるという著者の意見に十分な説得力を持つものでした。
反対に、子どもたちが傷つけられることなく、両親から尊重され真剣に相手にされて成長したとしたら一体世界がどんなふうになるだろうかということが、私たちはわかっていない、との言葉が印象に残りました。
精神的外傷を受けたことより、それを抑圧しなければならない心理的負担こそが、病気をもたらすというのが、まさに自分と同じで納得しました。
怒り、憤怒、屈辱、絶望など悲しみの感情を人に見せることはおろか、感じることさえ許されないために。
それを体感して初めて、心因性の病気の症状が消失するという話も、ずっと自分が思っていた、たどった道と同じでした。
表に出されることなく、抑圧されていた親に対する非難を大人になって、解放し再体験するのは、これから先、人に文句ばかり言うようになるという意味ではなく、むしろ話は反対なのです。
両親に向けられていた怒りや悲しみの感情を体験できるようになったからこそ、それによって感情の麻痺が消失し、悲しむことが可能になり、和解に至ることもできるということです。
本当の意味で生き始められるようになるのです。
この本を読むと、現代のいじめや虐待、体罰なども、精神的な抑圧が進んだ結果、社会に反映されてきたものに思えてきます。
子どもの頃から、真の感情を味わえず、大人が押しつける理屈ばかりが(「いじめは根絶されるべき」なども、意味がないように思う)かえって、それを助長していると思います。
子どもを生命力豊かに創造し、情感に浸るようなところがもしあれば、それが子どもの内部にある場合であれ自己自身の内部にあるものであれ、かまわず抑圧するというやり方は、我々の生活の中のあまりにも多くの領域で行われており、私たちはもはやそれに不感症になってしまっていると言ってもかまわないほどです。(P.73)
自分の怒りを自分の一部として理解し認めることのできる人が暴力的になることはない、とのことです。周囲の人々がこどもの感情に対する理解を全く欠いている場合、幼い子どもは憤りの感情をそれと知ることもできず、自分の内部にそういう感情を意識することもできない。
自己内部の憤りを認識できない時はじめて、他人を殴りたいという衝動に駆られる、というのが納得しました。
子どもらしさ、すなわち弱く、力なく、頼りない性質とはでき得る限り早くおさらばして、なんとか大人らしい、自立したしっかりした性質になり、人に尊敬してもらおうとする傾向があります。
自分の子どもの中に、子どもらしい性質を見つけると、大人は自分の時と同じやり方でそれを潰しにかかり、それを「教育」と名づけるのです。(P.73)
最初の「闇教育」は昔の外国の話で引用が多く、字も小さく、正直わかりにくいところもあるのですが、子ども時代に何が起こって、その結果や与える影響についてはすごく伝わってきます。
教育に関しての話は少なからず衝撃を受けて、考えさせられました。
親との関係(親自身も)や心の問題に悩んでいる人は、ぜひ読んでほしいと思います。
最後の「和解への道」だけでも参考になると思います。
(以前書いたことがある「『感じない子ども こころを扱えない大人』 袰岩奈々 著」も、こころについて考えられる良書だと思うので参考に)。