M.C.エッシャー 数学的魔術の世界
THE GRAPHIC WORK OF M.C.ESCHER
岩成達也=訳
制作・印刷 Tijl B.V., Zwolle, Holland
発行所 河出書房新社 1976年4月
表紙箱作品=「重力」リトグラフ(筆彩)1952
※同書帯に〈自選画集〉とある
表紙カバーに使われた作品「相対性」[リトグラフ.1953年]
M.C.エッシャー=紹介
Maurits Cornelis Escher ──愛称Mauk
●1898年6月17日、オランダに生まれる。
●1919年〜1922年、ハールレムの建築装飾美術学校に遊学。当初建築を
専攻するも、恩師メスキータのすすめにより断念、グラフィック・アート専
攻に転じる。
●1922年〜1936年、イタリーに滞在。当地の景物に深い印象をうける。
この間、1824年富裕なスイス娘イエタと結婚。 習作時代。
●1935年〜1936年、勃興しつつあったファシズムを避けてスイスのイエ
タの実家へ寄寓。また1936年5月〜6月スペイン旅行。アルハンブラ宮殿
のモザイク模様より強烈な衝撃をうける。生涯における最大の転機となる。
●1941年、オランダのバールンへ帰着、以降ほとんど住居を離れることな
く生涯を当地でおくる。従来の習作群に決別して真にエッシャーの名にふさ
わしい独創的な作品が産出され始める。
●1940年代を通じて、エッシャーの作品は、美術関係者からはほとんど無
視されていた。しかし、1950年代頃より、まず一部の科学者の間で注目を
集め始め、ついでアメリカに紹介されるやヒッピー、学生、ロック・グルー
プ等若者を中心に急速に支持の輪が拡がり、それがオランダに逆輸入され
て、1968年ハーグ市立美術館で第1回のエッシャー回顧展が開催された後
はもはやその名声はゆるぎのないものとなった。
●1972年、ラーレンにある高齢芸術家の共同住宅で、おそらくは神を信じ
ないままに死去。
(以上同書、記載文を引用)
『8個の頭部』[ウッド・カット、1922年]
この作品は、エッシャーによって産みだされた平面の正則分割に関する最初の作品。当時、作者はまだハールレムの建築装飾美術学校に在学中であった。
最初期の頃から、すでに規則的に継続される反復性という事柄に魅せられていたことを示している。
作品[G・A・Escherの肖像画]1935 と新聞記事(私物切り抜き)
G・A・Escherとはオランダの版画家M.C.エッシャーの父親です。そのG・A・エッシャーが日本に来ていたという新聞記事です。明治六年(1873)九月。当時、内務省土木寮(現在の建設省)から招かれた一等工師。全国各地の治水事業を従事。たまたま福井県九頭滝川河口に訪れた時、三国の竜翔小学校の校舎の設計を依頼された。(新聞上写真)と書かれている。
※註 朝日新聞大阪本社主催の〈M.C.エッシャー作品展〉の折の掲載記事(私物切り抜き)です。