夏が近くなると滝の水公園も何かと話題になる。丘陵から全方位を見渡せる夜景のひとつひとつに、さほど生活臭のない年頃の男女の揺れる想い、そして夜空の雷光を見んがために集うバイク少年たちの焦燥、そういった感慨が重ねられて伝播していくのだろう。女子高生の月子(つきこ)は、公園から住宅街を見渡せる南向きが好きだった。その方向には従兄妹の明利(めいり)が「円盤がここを目指して飛んできそうだね」と言った鉄柱のモニュメントがある。宵闇の覚束なさが芝生上にじわじわと氾濫してきて、街灯りがくにゃっとなった四脚にちらちらと反射する夕刻、河の流れ込みと上げ潮が攪拌された匂いの風が強まって、彼方の海上から冷やりとした金属片が飛来する想像は爽快だった。 「宇宙人がいるとしてさ、あたしたちの味方?それとも狸の味方するのかな?」 月子はそう問いかけてボールをふわりと蹴った。明利は左足甲で受けてから胸まで二度リフティングしてから蹴り返した。 「宇宙人は、人間寄りなのは嫌いだろうから、狸の味方するんじゃない」 滝の水公園に出没する狸も話題になっていた。棲みやすい木立や薮が繁茂しているわけではないが、行楽の食べ残しや餌付けまがいの残飯撒きをあてにして、あるいは腐敗物を埋め立てての造成ゆえのガスの臭いや蚯蚓に惹かれて、など勝手な憶測と違わない様々な出没理由が飛び交っていた。 「宇宙人は人間が嫌いってこと?」と蹴り返して聞くなり月子はおかっぱの短髪を揺らして項垂れた。 「そうか、そうだよね、宇宙人が人間を好きだったら姿を見せているもんねぇ?」 「それかもしくは、もともと宇宙人なんていないってこと」 「やっぱり寂しいね、人間は」そう言って月子は返ってきたボールを沈めるように止めた。 「こんなに綺麗な夜景を見ながら、人間は人間に話しかけるしかないんだよね。そうか、だから円盤にのってやってくるのは宇宙の人、宇宙人っていうことで…人の格好をしているかどうか、円盤にのって来るかどうかも分からないのにねぇ?」 「だから宇宙人なんて…インステップでふかさず蹴ってみて」 明利はほとんど回転しない重いボールを胸で受け止めた。痙攣しているようなボールを掴んで熱い息を吐いた。そして月子の実力を検めきったように何度も頷いて、住宅の灯りが増してきた南から西の鳴海の方へ目を移した。向い風に藍染のスカーフに束ねられた黒髪が緩やかに弄られて、母譲りの金色の瞳はどこか潤んでいた。 「人間の一番の友達は、電気なのかもしれないね」 「電気?そうだね、人間は電気なしじゃ生きていけないよね」 「あたし達なしでも平気みたいだけれどね」明利はもうひとつの鉄柱モニュメントの時計を指さして疲れたように微笑んだ。 「あたし達の愛らしさ、あたし達のずるさ、あたし達のしなやかさ、そんなものがなくても、大抵の人間は電気があれば生きていけるみたい」 「そうか、そこまで分かっていて」と言いかけながら月子は走りよっていってボールを受け取った。 「明利ちゃんはフィレンツェ仕込みでこんなに美人なのに、あの狸みたいな日本人と結婚しちゃうんだ。大人って大変?大変みたいね。結局、食べさしてくれる人間に寄りそって生きていくしかないのかな」 「狸みたいって」と言って苦笑しながら明利はシャツの胸元を掃った。 「狸と一緒にしないで。あたし達と同じく清潔で、あたし達と同じく時として豹変する、いたって優雅でちょっと甘えん坊な人よ」 月子が当てられたように鼻下を伸ばそうとすると、亀の甲羅と呼ばれる中央敷石に登頂しきったばかりのような男子二人が現われた。骨太そうで大柄な制服を抱えた痘痕頬なのがサッカー部の淳市、華奢で小柄な制服をそこそこに着込んでいる剃刀のような一重涼目が馬術部の昭二、という幼馴染みにして鳴海高校の同級生である。月子はいつものように睥睨するような目つきになって二人を手招いた。 「あたしと明利ちゃんはもう帰るので、後のことはよろしゅう頼むね」 「ほんな殺生な」と淳市は夜空に鳴き上げるように言った。 「部活が終わってなぁん(何)も食わんで飛んで来たのに」 「市はそういうことを平気で言う男やったのね。明利ちゃんを一目見れるだけでいい、と言ったくせに情けぇへん男。あのね、明利ちゃんは8時には新幹線に乗らなきゃなれへんの」 「ほんな殺生な」と淳市は口ぐせを繰りかえしながらもシャツの汗を気にしている。 「今度はいつ鳴海にいらっしゃるんや?」 「この次の鳴海はないかもしれぇへんよ」と言って月子は明利の微笑みの前に立った。 「よお考えてよ、明利ちゃんは二十八歳の立派な大人の女、市はじゃが芋みてえな顔をした高校生、分かった?」 「殺生な…結婚されるというのは本当やか?」と淳市は意気消沈しかけたが月子の持つボールを見て反応した。 「そういえば、なでしこジャパンに知り合いの選手がおるって本当やか?」 「本当よ」と言って明利は後から月子の両肩に手をかけた。 「浦和レッズレディースの浮田摩魅(うきた・まみ)は知っているでしょう?U‐21で有名になったもんね、そんなに可愛くないけれど、狸みたいなスタミナがあるからね。でもね、そのうち彼女とマッチアップして彼女からボールを奪ってしまう才能が、ここにちゃんといる」 月子は浮田の名前を耳にした瞬間に腕が鳥肌立って、彼女とボールをはさんで対峙する想像に耳をほんのり赤らめた。 「この月子よ、名古屋FCレディースの真ん中をやっている眼の前の加藤月子よ。伊賀九ノ一が欲しがっているあたしの従兄妹」 月子の小さく傾げた恥じらいに淳市の目尻はゆるゆると穏やかになっていった。そして一言も発していなかった昭二が、咳払いをした後で淳市の背中を軽く叩いた。 「間に合わなくなりますから行ってください。あとは月子から聞いていますので、僕と淳市に任せてください」 鳴海を宿場町として栄えさせた東海道一号線、その一号線から鳴海の高架駅の下を抜けて橋を渡ったところに曹洞宗の瑞泉寺がある。開山はまだ周辺を根古屋と言っていた十五世紀初頭なのだが、徳川の時代の吉宗が亡くなった頃に完成した本瓦葺の山門は優美である。有形文化財になっているその山門前の石段で、昭二は自分の両手を嗅いでは舌打ちをしていた。昼間の凛とした乗馬姿の昭二しか知らない人が見れば些か幻滅したことだろう。昭二は月子が帰ってくるのを待っていた。 月子は昭二が待ち伏せているのを察知していた。脚力と球捌きばかりが目立ってしまう月子だが、人には言えない感覚、特に想像力と寛容さに乏しい人間には了解し難い能力がある。駅を出て扇川沿いに歩いてくると、何やら焦げて馴染みやすい誘うような匂いがしてきた。鰻屋からだろうと思って微笑んだ。さらに界隈を知るいつもの帰り道にしては、大気が揺籃と苛立っているような気がした。寺の前のスーパーが閉じようとする時刻なので、従業員と遅い買い物客の疲労が波及しているのだろう。しかし月子の耳は寺の方へ向いた。爪先から逆走ってくる感触は、今し方見送ってきた明利に初めて会ったときと同じだった。山門の下に何かがいる。月子は居眠っているような昭二を見つけた。 「お早いお帰りやこと、お坊ちゃま。たぬき蕎麦が出るのはもっと遅くなってからだと思うけれど」 ゆらりと立った昭二は月子の方を見ないで内ポケットを探りはじめた。二人の距離は傍目にも若々しい逢引には見えなかった。 「狸のカウントと糞拾い、市にだけやらせて自分は知らんぷり、っていうこと?」 「淳市はもう帰っているよ」と言って昭二はA4紙を開きながら渡した。 「と言うか、淳市は帰らせた」 月子は受け取った紙から早朝の根付いたばかりの芝生の匂いを感じた。 「暗くてもツッキィなら見えるだろう。そこは僕の祖父さんの故郷で、韓国のちょうど真ん中くらいにある堤川(チェチョン)、堤防の堤に川って書く所で、後ろの湖みたいなのは有名な貯水池らしい」 月子は整備された麗らかな水際の写真と昭二の冷やかな横顔を見比べた。集中して見ると左下の水辺にある黄毛は動物らしい。逆光で撮ったせいか輪郭が白く滲んで見えた。 「そこに写っているのは伯母さんだよ。前から金色の狸の噂があったところに、足の傷がなかなか治らないので、人の治療を頼って観光地へ出てきたところを撮られたんだ。今は治療が済んで山奥へ戻っているようだ」 「昭ちゃんも金色なの?」 「僕は…きつね色だよ」と言って昭二は爛々とした月子の眼光を受けとめることにした。「笑ってくれないんだね。昨日までだったら、気取った顔しちゃってさ、狸の色は狐よりも濃い目の味噌煮込みの味噌みてえな色にきまっておるやろ、とか言うところなんだろうな。いつ気づいた?」 「入学してすぐに馬に乗るっていうから…」月子は写真を返しながら自分が口篭ることに驚いた。 「その…昭ちゃんは犬でも何でも動物嫌いだとばかり思っていたから、頭が変になりよったのかな、と思って、みんなと中京競馬場に見に行ったら…昭ちゃんが話していた、馬と。みんなは、何あれ嫌らしい、ドラマか映画でああいう場面あったよね、どこまで気取っておるのかしら、なんて言っていたけれど…あたしは分った、昭ちゃんが本当に馬と話しておるのが分かった」 昭二は写真をゆっくり握りこんでいって、遣りきれぬふうに眼を閉じて細い顎を上げて旋回させた。 「そこまで分かっていながら、あんなことをやらせるなんて…従兄妹が山形や皇居で調査していて、ついでにツッキィのいる鳴海の近くの公園に出てくる狸も調べてくれって?頭数を数えて糞を拾ってくれって?自分はサッカーで忙しいから、ちょうどいい阿呆が二人おるからやらせてみるって?淳市は、大きい方はずっとツッキィに惚れこんでいるし、もう片方の小さいのも、何でも言うことをきくはずやって?」 「もうやめな、聞きたくない」 「そいつは在日だから苛められっ子で…そもそも母親が工廠で働かされた在日の娘で…たしかに、いつも苛められているところを助けてくれたのは、加藤さんのところの男勝りのツッキィやった」 昭二が震えながら言いきった瞬間、制服の背中が鈎針を走らせたように稲妻に裂けた。 「昭ちゃんのほんな言い方は聞きたくない…」と言って月子は爪をかけたまま彼の背にすがった。 「ほんな昭ちゃんは嫌や…昭ちゃんは何があっても、キムチ臭いって言われても、安貞桓(アン・ジョンファン)に似ておるって頭をいじられても、昭ちゃんは我慢していたじゃない…」 昭二は振り返って彼女の泣き濡れた眼を見たかった。そして凭れかかる身の軽さと絶妙な甘やかさ、それは想像していた以上に世界を麻痺させるものだと実感していた。 「昭ちゃんは犬みてえにじゃれつかないから格好いいんだよ。昭ちゃんは猫みてえに泣き言をみゃあみゃあ言っちゃ駄目なの。それに待ち伏せておいてさ、自分の言いたいことばっかり言ってさ。そっちの系統だって知っていたら、滝の水になんか行ってもらっていないよ」 「今、知ったのか?」と昭二が言うなり背中の猫額が頷いた。「それじゃあ、中京の馬場で見た馬と話している僕は?」 「昭ちゃんは昔から髪の毛がちょびっと赤いから、バランの系統かと思ったんや」 「バラン?何やろう、バランって」 「何やろう、って今言ったよ。バランは…言っておるはずだよ。ここのところうるせえ女になりよったと思って無視していたやろ?」 月子は言うなり彼の胸元へまわって制服のボタンへ指をかけた。ひとつ、二つめを外したところで、彼の猛烈な握力が両肩を押えたので弾くように後退った。 「ほんなことしたら痛いよ」 「こんなところで…脱がせるなよ」 「あちゃ、何を勘違いしておるんやろう。明日はこんなの着て学校行ったらあかんやろ。代わりの持ってるよね?」 昭二は手の置き場がなくなって自分でボタンを外すしかなかった。 「考えていることが、やっぱり雄なのね、何の系統にしろ」 「バランって…何のバランなんだ」 「バランは東山動物園のオランウータン。すっごい爺さんのオランウータンだよ。だって馬に乗るっていったら、やっぱり猿の仲間しかいないやろ。昭ちゃんもいっぺんは見ておるはずだよ」 月子は脱いだ制服を奪うようにして抱えて軽く鼻先をあてた。 「わっ、狸くさ~い。直してもらったらクリーニングに出しておくね。大丈夫、お母ちゃんはちゃんとした霊長目やから今晩中に直しちゃうよ」 昭二はいつのまにか楽しんでいるような彼女を見て大人びた苦笑をした。そして言い残す言葉が見つからないまま男っぽく歩き出した。 「バスがもうないから、電車だよね?引っ掻いたお詫びに送っていくよ、駅まで」 二人は堪らん鰻風を正面に受けながら城跡の方へとぼとぼ歩いていった。 「ひとつ聞いていい?なにもかも打ち明けたっていうことは、鳴海からいなくなっちゃうの?」 「堤川は母さんの先祖の土地だから、金色の伯母さんに母さんを会わせてあげたいだけだよ」 「なんか…心配でさ、この前、市から変なことを聞かされちゃって。昭ちゃんがね、新栄の韓国料理店のお姉さんとつきあっておるんじゃないか、とか」 「よく行くよ、あそこには…母さんがやっておる店を見に行ってもおかしくないだろう」 月子は自分に納得を言い聞かせるように頷いた。そしてついでとばかり鋭利な爪を彼の右腕に立てた。 「もうひとつ聞いていい?ポンポコリンの一族でも浮田摩魅は有名なの?」 「なでしこのポンポコリンか…ああ、サッカーのことは知らないけど、名前がマミだから猯(まみ)としては有名になっちゃったよなぁ」 「マミって狸なんでしょう?」 「マミは魔魅で…だから摩魅は猯だ。たしかに相当な猯らしくて、明利さんが言っていた皇居の調査グループにも、ちゃっかり紛れ込んでおって、糞の水洗いとかも何食わぬ顔でやっていたらしいから…相当な猯だ。しかし関東の方の話なので…」 「関東の方の何なの?」 「母さんがちらっと聞いてきたところでは、えぃ~と…オサキ、そうだオサキ」 月子は反り返るようにして立ち止まった。 「オサキ…九尾の狐の子孫、オサキギツネ(尾先狐)でしょ…」 「そう、そのオサキじゃないか、って言うのも一族の中にはいて…まぁ、会ってみないことには分らないな」 「本当にオサキだったら…きっと美人だよね」 「だから会ってみなくちゃ分らないって…ただ、サッカーは滅茶苦茶うまいらしいな」 月子は己の特異で優美な血統など忘れて胸を熱くした。 「そうか…それは燃えるね、サッカー選手として…女としても」 昭二は腕に加わった爪の痛みから逃れながら首を傾げた。 「そう張り切らんと、とりあえず人間の女のように、もっとかんこ~して(よく考えて)からにせいよ」 「ほぅらでた、かんこ~してって、やっぱり昭ちゃんは狢(ムジナ)とか猯やない、立派な尾張の狸、鳴海宿の金タヌキじゃ」 「それだったら、月から魔力をもらっているツッキィは、やっぱり金を盗りあう敵同士ってわけだ」 月子は反射的に立ち止まって朧な満月を仰いだ。 「敵同士って…それじゃ人間そのままだよ、残酷な人間そのまま…あたしはね、ボールを蹴るのが楽しくてしかたない、鳴海宿の油舐め、それだけだよ」 了
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