<サタンは答えた。「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか。(9節)> ヨブの紹介からヨブ記は始まる。「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。」 主は「地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」とサタンに言われた。するとサタンは「ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか。・・・ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れて御覧なさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません」と言い返した。 「そのサタンの言葉にはすべての信仰者を揺るがせかねない問いがあります」と9月の家庭礼拝歴担当、広島長束教会井上豊牧師は書き出される。そして「サタンによれば、信仰は神との取引に過ぎず、何の利益もないところに信仰はないというのです。」と続けられる。 昨日の礼拝は散々な大雨だった。それでも集まった者は共に御言葉を聞き、共に賛美の歌を歌い、びしょ濡れになったけれど来てよかったと互いに喜んだ。けれども、もし礼拝に集まる者が、牧師と自分の他はいない淋しいものだったらどうだろうか。 自分だったら喜びより不満を持つだろう。時には説教とは関係ない話に花を咲かせる、気の置けない友との交わりが与えられていると実感してこそ教会が楽しい、信仰が大切だと思っているところが大いにある。「富」とまではいかないが「利」を求めている所がある。 戦時中の礼拝記録の出席者は4~5名。それでも、集まる人がいたんだなぁと感心していたら、内訳は牧師の母上と奥さまとお子さんたちだけの礼拝であった。信仰が利をもたらすどころか、説教の内容によっては厳しい検閲を受け、時には投獄される牧師もおられた。 「利益がなければ・・・」というサタンに主は「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい」と言われた。「神はサタンが立脚する拠り所を打ち壊して見ようとなさったのです。ヨブの信仰が試されることになったのです」と井上牧師は説かれている。 そして「鉄は溶鉱炉の中で鍛えられます。神は、わたしたちが受ける苦しみを通しても、サタンの悪巧みを打ち破ろうとされているのかもしれません。」と結ばれる。
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