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第九百五十話 豪雨

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 夜のうちから警報が流された。夏がはじまる頃から不穏な気候が増えて、各地で異常な降水による被害が起きたという報道もたびたび耳にした。幸いこのあたりでは被害が及ぶほどの雨はなかったのだが、それでも大雨洪水警報が発令されることはこれまでにもあった。

 十一階の窓から見ると、目の前に落ちる雨粒はひとつひとつが大ぶりで、それより向こうは雨粒の数が多すぎて一面が真っ白で厚い雲の中にいるようである。視線をぐっと下げて道路を覗き下ろすと走り行く車の姿がかろうじてわかるのだが、その背後を白い波が追いかけているのがわかった。アスファルトのグレイがよく 見えないのは道路一面を雨水が覆い尽くし、川のようになっているからだとわかった。

 二十年前のあの日も午後から警報が出ていた。父母は朝から車で祖父の法事に出かけていた。受験勉強を理由に居残りを許され自由を手に入れた子供が机の前でおとなしくしているはずもなく、弟を誘惑して一日中ゲームに没頭していた。当然、警報のことも知らず、表がどういうことになっているのかにも気づいていな かった。腹が減ったらみずやの中にしまわれている菓子やパンを食べてはテレビの前に戻った。

 夕暮れになって部屋の中が薄暗くなってはじめて、両親の帰りが遅いことに気づき、平屋の玄関口に雨水が侵入していることを知った。窓から外を覗くと、家の前の道は川のようになっていて、安普請な家は中洲に取り残された小舟になってしまったように思われた。急に恐ろしくなり、もはやゲームを続ける気分は完全に 失せてしまった。親に嘘をついてまで遊び続けていたことに罰が当たろうとしているのではないかと想像して慄いた。携帯電話などまだない時分で、祖母の家に電話をかけてみたが、風雨で断線しているのか通じなかった。もしやなにかあったのではないだろうか。祖母のあたりもこんなひどいことになっているのだろう か。ニュースが気になってテレビをつけてみたが、お笑い番組や漫画しか流れていなかった。弟は平気なのか自室で自分の世界にこもっているようだったが、不安が膨らみ過ぎてなにも手につかないままベッドの上で転がっているうちに眠ってしまったのだった。

 気がつくとあたりはすっかり暗くなっていて、居間に灯りがついていた。味噌汁の香りに腹が鳴った。ああ、帰っていたんだ。眠る前にあんなに不安になっていた ことを思い出して急におかしくなった。嘘をついてごめんなさいと謝ろうか。いやいや、そんなことは無駄だ。勉強をしていましたと報告しよう。それよりも母 を抱きしめ、父の背中にしがみつきたいと思った。大きく伸びをしてからベッドを離れ、父母の気配がする居間に向かった。

 居間の灯りと思ったのは窓から差し込む外灯の灯りで、薄暗い部屋には誰もいなかった。弟はまだ部屋にこもっているらしかった。 壁掛時計の針は九時を指していた。こんな時間……いったいどうしてしまったんだろう。お腹の真ん中に空洞が膨らんだ。やっぱりなにかあったに違いない。

 遠くで電話が鳴っていた。弟が部屋のドアを開けて電話に出た。どたどたと廊下を歩いてきた弟がドアを開けて言った。

「母さんたち、もうすぐ帰るって。腹へったぁ」

 今度はほんとうにベッドの上から起き上がって両手で顔をこすった。

豪雨になると、あの体験が甦る。夢のまた夢というおかしな夢を見ることはあったが、あれほど不思議な気持ちになったのは一度だけだ。

 だが、時々妙な気持ちにとらわれる。あの日の豪雨はまだ終わっていないのではないか。あれから二十年も過ぎているということも、両親から電話があったこと も、弟が廊下を歩いてきたことも、すべてまだ夢の中で、私はまだ自室のベッドの上で眠り続けているのではないかと思うのだ。

                                                了


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