<だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。誰かがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。(29節)>
パウロがかつて教会を迫害した者であったことや、律法を知らず割礼を受けていない異邦人に主の福音を宣べ伝えていることを指摘して、彼の使徒職に異議を唱え人々を扇動し続ける人をパウロは「偽使徒」と呼び、彼らこそ何をもって自分は使徒であると思っているのかと言った。
彼らが誇っているのは彼らの氏素性や業績でしかなかった。彼らは本当の神の民とは、神に選ばれたイスラエルの民であり、ヘブライ人の血を持つ者であると説いていた。それに対してパウロは、神との特別な関係に生きる神の新しい民は、誰でもイスラエルの民に数えられると説いた。
パウロはイエス・キリストに従う者たちが真の神の民であると確信していた。
パウロはこれまで自分を誇ることを控えてきたが「私も少しは誇れることができる、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです」とペンを進める。そして、コリントの信徒たちに「あなたがたは誰かに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても・・・」と、教会が偽使徒たちとその教えに傾倒し、彼らの奴隷になっていると指摘した。
彼らが誇りとする出自はパウロも持っている。さらに彼らが誇りとするキリストへの従順を言うなら、自分こそ彼ら以上である。そのために直面した投獄、鞭打ち、投石、難船、盗賊や同胞からの難、異邦人からの難。飢えと寒さ、屈辱、いつも死との隣り合わせにあった。
律法では人が受ける鞭打ちの数は40回が限度だったので、限度ぎりぎりまで鞭を打たれた事が5回もあった。パウロは主の名によって受けた労苦や迫害、艱難のすべてを誇りとした。
そしてそれら自分が身に受ける痛みに加え、主の名によって立てられていった教会に絶えず新たに持ち上がる問題や厄介ごとに思いを傾けた。誰かが弱っていると聞けば共に祈り、誰かがつまずいて前に進めないと聞けば共に心砕き祈りを合わせた。
パウロはさっと登場し、すべての問題をてきぱきと解決するスーパーマンではなかった。むしろ、痛い時には呻き、涙を流し、恐怖の時は震えおじ気、ただその時が過ぎるのを待って祈ることしか力がなかった。
彼は「誇る必要があるなら、私の弱さに関わる事柄を誇りましょう」と今の私たちにも呼びかける。
偉業を達成したイチロー選手が、打つことができなかった打席が今日の自分を育てたというようなことを話していて改めて尊敬した。
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