<さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。(1節)>
昨日までの箇所に比べ、今日の10章からパウロの手紙の調子が変わる。9章との結びつきも悪く、そのため10章からが「涙ながらの手紙」と言われているものだと考えられている。コリントの教会内には「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言って、パウロの使徒としての権威を疑問視する声も上がっていた。
外見でその人を判断するのはよくあることだが、さらに話しぶりや優しさ知識の豊富さでも、簡単に相手を見抜いたつもりになってしまう。長く日本に住むベトナム人に日本国籍に変えると選挙もできるよと勧めたら「相手のことを良く知らず投票するなんておかしいよ」と言い返された。
パウロたちを批難する人たちは、パウロたちは人間的動機、例えば名声を得たいとか、富を得るためとか、またはローマ帝国からの解放を目指してとかそういう動機でコリントの人々を啓発しているのだと考え、教会の人々を惑わせていた。
そのような人々に「私たちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞をも破壊するに足ります。私たちは理屈を撃ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し…」と宣戦を布告した。
パウロが初めてコリントを訪れた時「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。・・・そちらに行ったとき衰弱していて恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵に溢れた言葉によらず『霊』と力の証明によるものでした」と2章で記している。
コリントの人々が会って話をしたパウロは、長旅により衣服も履物も、疲れからくる体も貧弱なものであったろうが、そのような見た目に関わらずその時のパウロと、今力を尽くして手紙を書き記すパウロは全く変わりないと告げた。
パウロを批判する人々の中には、彼らの語る言葉を聖霊に帰するよりも、むしろ自分自身の功績のように主張する者もいた。私たちの教会では、神の力が働いたことを感謝して「感謝献金」が求められる。健康、受験、就職、出産、結婚、葬儀までも神に感謝する。すべて、成し遂げて下さったのは神であって、自分自身の功績ではないことを覚えなければならない。
パウロは感情的に悲憤慷慨しているのではなく、「あなたがたを打ち倒すためでなく、造り上げるために主がわたしたちに授けて下さった権威」をもって、コリント教会の危機に立ち向かう。
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