『世界の「道」から歴史を読む方法』 藤野紘 2011/03
著者は旅行ジャーナリスト。 「道」という視点で世界史を読み解く本。
アケメネス朝ペルシアは前539年に新バビロニア王国を滅亡させ、オリエントに覇を唱える。前522年に即位したダレイオス一世は、東はインダス川、西はギリシャ東部からエジプトまで4千万人の帝国を築いた。統治の立役者が「王の道」と呼ばれる道路。帝都スサ(バスラの東)からバビロニア、上ユーフラテス、カッパドキアなどを通ってサルデス(エーゲ海沿い)まで2400kmの幹線道路。王の道には一定間隔で宿駅が配され、早馬を使った情報伝達が行われた。ギリシア人は「飛ぶ鶴よりも速い」と評した。
ローマ帝国もその版図にローマ街道を作り、一定距離ごとに替え馬ステーションを設けた。この街道を利用して中国から絹が輸入された。絹と金の価値は同じとされ、年間80万ポンド相当の金が流出した。ローマ街道は帝国の立役者であると同時に、ぜいたく品を輸入し、帝国の経済を弱体化させた。
イスラム教の創始者ムハンマドはメッカで伝道をはじめたが、出身部族のクライシュ族から迫害され、622年に信徒70人を連れて当時の新興都市メディナへ移住する。これを「ヒジュラ(聖遷)」と呼ぶ。メディナで力を付けたムハンマドは1万の軍勢を連れてメッカを占領する。聖遷がなければどうなっていたことか・・
隋王朝は581年に中国を統一する。二代皇帝煬帝は大運河の水路網を作り、南部の食料を北へ運ぶことが可能となった。しかし運河沿岸に40ヶ所も離宮をつくるなど散財と民衆の反感を高めた。その後3度の高句麗遠征失敗などで滅亡へ向かう。
十字軍が始まる前、ローマ皇帝が教皇を兼任していた。教皇の下には5人の総主教がいたが、その一人ローマ総主教が勝手にローマ教皇を自称して離脱した。それ以来キリスト教は東方正教会とローマカトリック教会に二分した。
14世紀にヨーロッパを襲ったペストの始まりはジェノヴァの植民地カッファ(黒海北部)とされる。カッファと周辺のタタール族のいざこざで、タタールはペストの死体をカッファの町中に置いた。カッファの人は慌ててジェノヴァに帰国、ヨーロッパにペストが広まる。これをペストロードと呼ぶ。
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