内容(「BOOK」データベースより)この超長編もいよいよ大詰めを迎えつつある。序盤にズバズバ当った楠木正儀の計略も、このあたりから徐々にシナリオ通り運ばなくなってきて、少し手詰まり感が出てきた気がする。病床の父・親房に代わって南朝・北畠家の当主を務める顕能は、父と違って暗愚で、正儀の献策にほとんど耳を貸さず、武士は朝廷の意のままに働けばよいという意識の持ち主として描かれている。(実際のところは親房もそういうタイプの人だったらしいが、本作品では親房は南朝にのける正儀の最大の理解者と位置づけられている。) 正儀の神通力にかげりが見えたのは、第3巻における播州・赤松則祐対策だった。赤松を南朝方に取り込もうとの計略は、人の心の動きを見切れなかったことで不調に終わり、赤松は南朝、北朝どちらともつかない日和見を決め込んだ。このことは、せっかく足利義詮を近江へと追って17年ぶりの京都帰還を果たした南朝方にとって、後方に憂いを残す状況を意味する。せっかくの京都占拠であっても、近江と播磨から挟み撃ちに遭うことだって考えられるのだ。ここまでが第3巻。 そこで正儀は悩んだ。いかに京都占拠を持続させるか。北畠顕能はしきりに正儀に近江遠征を求めるが、楠木軍の主力を近江に差し向けると、赤松軍が西から京都に侵入してくるかもしれない。暗愚な顕能はそこが読めない。この後顧の憂いを断つため、正儀は壮大な計略を考え付く。博多の九州探題にある足利直冬と舅の少弐頼尚の軍勢を南朝の味方につけ、楠木配下の商船で運んで京都と播磨の間にある堺あたりで上陸させ、西の播州・赤松勢と対峙させるというものだ。 ただ、九州勢の堺上陸が間に合わなければ、京都の楠木軍は窮地に陥る。ぎりぎりまで情勢を見極めようと努めた正儀だったが、赤松勢が予想よりも早く京都への玄関口ともいえる大山崎まで進出してきたのを知り、京都を捨てて撤退することを決意する。 赤松勢の東上決定が早かったこともあるが、足利直冬が堺上陸ではなく播磨で上陸して赤松の本拠・白旗城を落とすことに執着して、到着が間に合わなくなってしまったことが大きい。これも正儀にとっては誤算である。 京都撤退を決めてからの正儀の行動は早かった。北朝方の皇族をことごとく拉致して河内・東条に連れて行くのに成功し、足利軍の追っ手の急追をいなしながら、河内国境にまで撤退するのに成功した。しかし、木津川橋で南朝方武将の寝返りにも遭遇し、本隊に少なからぬ痛手を負った。 それでも北朝方の皇族を東条にまで連れて行くのに無事成功し、次は男山八幡に陣取る後村上天皇と公家たちに撤退を進言して速やかに帝の動座を仰ごうと試みるのだが、ここでも北畠顕能、四条隆資らの公家の重鎮に受け入れられず、楠木軍は男山を囲んでの不利な防衛戦を強いられてしまう。この対応の遅れが致命的で、その後結局男山撤退を余儀なくされたが、追っ手の追撃をやり過ごしながら大和路を退却するのは難しく、天皇はなんとか賀名生に逃げ延びるものの、南朝方には多くの犠牲者が出た。 「南北朝合一」を自身の達成目標に掲げる正儀にとって、よかれと思って行なった献策がなかなか聞き入れられず、思った通りの工作がなかなかできないのはストレスもたまる。大和路に連なる多くの南朝方の兵士の遺体を眺め、「南北合一」のためには自分が北朝に降伏することすら辞さないとひとりごちる正儀を見ていると、南北朝合一が難しかったのは、武士というよりも皇族・公家のメンツにこだわりすぎた不見識と武士を見下したエリート意識に原因があったのではないかという気がどうしてもしてしまう。 来週は、なんとか第5巻まで読んでご紹介できるようにしたいですね。
京都を手中にした正儀であったが、北畠親房は病める身、頼みとする赤松側祐はいつ裏切るとも知れず、近江に落ちた足利義詮は5万の大軍をもって京都にせまっていた。正儀はついに京を捨て、北朝方の三上皇らと三種の神器を南朝方に連れ去った。一方、足利尊氏は病いに伏していた…。NHK大河ドラマ舞台・混迷をきわめる南北朝時代の戦いと愛を見事に描いた、直木賞受賞の大作。
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『吉野朝太平記』(4)
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