筒井康隆の新聞連載小説(朝日・20012年7月〜13年3月)。 SFではなく、普通の小説、いや「普通」とはちょっと違う。設定がなんとも凄いのだ。
類まれな美貌を持って生まれ、5歳の時に変質者に襲われて陰茎と陰嚢を切り取られるという凄まじい災難に見舞われた男の、それを秘しながら小中高、大学生、就職、独立へと成長していく過程の苦難と迷い、家族関係、友人関係、性的(いやむしろ無性的)な問題を克明にたどるストーリー。 筒井の筆は冴え渡り、擬古文調に挿入される古語に彩られて技巧が走り過ぎのきらいはある(なんのため衒学?)が、迫真力を持って展開する。そういう奇矯な設定とは別に大きな柱として出てくるのが、意外にも〈グルメ小説〉的な要素。しかし必然性はあって、リビドーを失っているために、基底に〈性〉の要素があって成立している文学や美術に関心が持てず、唯一の快楽としての味覚追究に目覚め、美味を探求する料理人として生きる道を見出す、その過程も興味深い。主人公のみならず、とりまく人達の成長も描かれる。しかも社会経済的な視点も盛り込み、バブル経済、その崩壊、最後には東日本大震災への対応まで至る。 そして、常に不穏さにつきまとわれている。それは粗暴でひねくれ者の弟の存在と、執拗に求愛し続ける男色家の存在。これがもたらす緊張感は強い。そのうち何かとんでもないことが起こるのではないかという不安を惹起しつつ進行する。そして…以下ネタバレ自粛。 それにしても主人公の造形は凄すぎる。この世のものとも思われぬほどの圧倒的な美貌なのだ(実写映画化不可能?)。これはちょっとありえない、という点で「ご都合主義的」かもしれないが、設定についてはこの言葉は使わない。「ご都合」はあくまでも展開の仕方について言うので。 ちょっと違和感を感じたのは、彼が「モテすぎる」ことである。女も男も夢中になって寄ってくるのである。これくらい神々しいまでの美貌の持ち主に対しては、普通「近寄り難さ」を感じるものではないだろうか? それはそれとして、彼の精神の軌跡というものは非常にうまく描かれていてリアルと思ったのだが、考えてみると「本当にそういうことになるのか?」という疑念も生じないではない。性器を失っただけで、かくも〈性〉から自由になって〈聖人〉のごとくなれるのか? 睾丸というハードウェアを失っても脳の性機能ソフトは残っているのではないか?(逆の例で「テンペスト」に登場する「紫禁城の宦官」の性的魔人を思い出してしまった。) その辺の医学的生理学的知見に関する作者の取材検討はなされていないのではないか、と感じた。↧