知・情あふれる父として「ヤング・ジャパン」の成長を見守り育てようとしたイギリス人の評伝
「近代日本ジャーナリズムの先駆者」であるジョン・レディ・ブラックについての伝記、評伝。
ブラックは、1826年イギリスに生まれた人物。「幕末に来日し、英字新聞にかかわり、さらに明治期に至って日本語新聞『日新真事誌』を創刊した新聞人」。これまでも、メディア史・ジャーナリズム史の分野では、大きな業績を残した人物として、すでに評価が定着している。
たとえば、『明治事物起原』(石井研堂著1908)には、「(『日新真事誌』は)俗にブラック新聞と称せしものにて、西洋紙刷日刊新聞の祖なり。(略)従来我国に発行せる新聞中、もっとも体裁の完備せるものにて、其体裁は総て西洋の新聞紙に模倣し、雑報物価広告の欄に至るまで、殆ど今日の新聞と大差なし。(略)故に紙上に一種の光彩あり」と、ある。
そのような評価はあるものの、実際のところどんな人物であったのか?著者は、史料を出生地イギリスに求めて渡り、インターネットを駆使し、さらには明治初期の漢語の中に分け入ってブラックの生涯を追いかけていく。当該書籍のスタイルは、だから、先行資料を検証しつつ進む「謎解き」のカタチをとっている。
著者の「謎解き」に付き合ううちに、ブラックの人物像がだんだん明らかになってくる。明らかになるとともに、ブラックに感情移入するようにもなる。54歳の死に至るまでが記されていく。読後、著者によって明らかにされた知・情あふれる人物の死に、ホッカリと哀悼の気持ちさえわいてきた。
幕末維新を経て、欧米諸国にならった「一等国」になるための発達過程にあった近代日本は、たいへんイイおじさんを得たものだと思う。ヤング・ジャパンは、こうした人々に見守られながら育ってきたのだな・・と思う。
ブラックの新聞の特徴は、なによりも「論説」にあったが、そこに示された「正論」は、内外に問題をかかえて政権維持に躍起になっていた明治新政府のニラムところとなる。そして、廃刊に追い込まれる。ほとんど「謀略」によって、である・・
「父親は、子から、疎んぜられることもある・・・」ブラックはそう思いつつ、子からうけた「仕打ち」を寛大に受け入れることさえしていたのではないか・・。「近代ジャーナリズムの先駆者は、同時に、偉大な父でもあった・・」そんなことを思いながら、読了した。

ヤング・ジャパン―横浜と江戸 (1) (東洋文庫 (156))
- 作者: J・R・ブラック
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1970/02
- メディア: 新書