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第八百四十九話 クロ

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 夕方になると昼間あたたまったアスファルトも温度を下げてひんやり冷たくなってくる。お父さんは唯一の家財であるリヤカーの横にダンボールを敷き詰めて、その上に横たわり空き缶やダンボール集めで疲れたからだを休める。クロはお父さんのからだに脇腹を充てがうようにして眼を瞑る。

 春から夏にかけて、クロたちはこの橋の上を根城としていて、それはそれなりに快適なのだが、冬が近づくと行き場を失ってしまう。公園や空家の脇などを探し回って、結局同じこの場所に戻ってくることになるのだ。市の方針が新しくなって、市中の美観を保つために次々とホームレスが仮住まいから追い立てられ、いまや公園でも川沿いの空き地でも、青いテントを見ることはなくなった。家無したちは皆それぞれに施設や木賃宿を紹介されてそちらに移っていった。だが、そういう場所へは犬を連れて行くことができない。人は人の場所へ、犬は保健所へと引き取られて行くことになるのだ。

 家族同然に暮らしてきたクロを手放すことなど、お父さんは思いもよらない。クロを手放すくらいなら、このままここで暮らしていくほうがいい。役所など、なんぼのもんじゃい。クロの頭を撫でて話しかけながら眠りにつくのだった。深夜の街はジャングルよりもはるかに静かだ。少し離れたところにある幹線道路は深夜であっても走る車はいるが、その数は昼間の百分の一くらいになる。族の車でない限りは、静かに通り過ぎていくだけだ。橋の周りには人影ひとつなく、ときどき川面に跳ね上がる鮒かなにかの水音がするくらいで、虫の声さえ聞こえない。ここには街灯もついていないので、夜中に眼を開いても闇が瞳に流れ込んでくるだけで人間の目には何も見えない。お父さんは腹のあたりから聞こえるクロの寝息に安堵感を覚えてまた深い眠りにつくのだ。

 明け方になると、まだ暗いうちから誰かが動きはじめる。新聞配達や早朝出勤の男、夜勤帰りの勤め人などが、ぱらぱらと動き出す。お父さんも同じくらいには目を覚まして身支度を終えている。前夜に調達しておいたコンビニの廃棄弁当をふたりで分けて食べ、水を飲む。ホームレス仲間が多かったときには互いに助け合いながら飯の調達ができていたのだが、いまはひとりで探し当てねばならない。大抵は空き缶やダンボールを集めて作ったなけなしの日銭を持って、馴染みのコンビニやスーパーでゴミ扱いになった弁当などを分けてもらうのだ。ホームレスの中には犬や猫を連れている仲間は少なくないのだが、みんなそれぞれに犬猫の飯には苦労している。人間だけでも食いはぐれるのに、ペットの飯まで手が回らない。しかし家族同然の者だからそういうわけにはいかない。結局同じ飯を分けあって食べることになるのだ。

「クロちゃん、ご飯だよ」

 ふいに女の声がした。ああ、おばちゃんだ。近所のどこか裕福なおうちの奥さんなのだろうが、数ヶ月前にクロの存在を見つけて、ときどきご飯を持ってきてくれるのだ。お父さんはあまりにも無口なので、ほとんど何も話さないが、おばちゃんがいうには、もう長いこと公園ののら猫を世話しているのだそうだ。

「おじさん、クロちゃんは人間と同じもの食べさせちゃだめよ。中には犬にはいけないものも含まれているんだから」

「そんなこと言われても……」

 そんな会話が交わされてから、おばちゃんはクロのご飯を持ってくるようになった。ときには人間用のおにぎりなんかも一緒に。ありがたい。この上なくありがたいことだ。お父さんはおばちゃんに頭を下げっぱなしだった。世間では、犬を連れているとこんな風に犬を不憫に思う人から施しがもらえる、だから犬を連れているのだという声もあるらしいが、そんな馬鹿な話はない。施しをもらうためにそれ以上に負担になる家族をひとり増やすなど本末転倒ではないか。

 ともかくおばちゃんの助けもあってひと夏を無事に過ごし、いよいよ太陽はより低い位置へと頭を下げる季節になった。路上生活者には過酷な環境がはじまる。こんな季節には、おばちゃんがついでに持ってきた古着や毛布がありがたい。一枚重ねるだけで、温かさはまったく違うからだ。

 いつまでも残暑を続けて欲しかったが、瞬く間に気温は下がり、橋の上は冷たい風の通路になった。夜になるとお父さんが咳き込む。持病のようによく咳をする人だが、今回の咳込みようはかなり苦しそうだった。咳込みながらクロを抱きしめ、それはクロを愛しているからではなく、暖を取る手立てとして、咳を吐き出すときの拠り所としてなのだが、「おお、クロよ」と言いながらリヤカーの影に横たわって眼を閉じる。

 新聞配達の自転車が走る。遠くを深夜トラックが轟音を上げて走り去る。とっくに夜は明けていた。いつになくお父さんは眠ったままだ。どうしたの、お父さん。クロは口の周りを舐めてみるが、体温がない。お父さん、お父さん。いくら鼻先で押して見てもお父さんの腕は動かなかった。その日一日、眠ったままのお父さんの横で過ごしていたが、夕方になって緑色の服を着た男たちがやって来て、お父さんをどこかに連れて行ってしまった。別の服を着た男が棒を持って近づいてきたので、クロは怖くなってその場を離れた。

 どうしよう。お父さんが連れて行かれてしまった。お父さんには同じホームレスの友達がひとりいたが、いまはどこにいるのかクロにはわからない。でも探すしかないと思って、お父さんと出かけたことのある道を探し回った。一週間、二週間、三週間、ゴミ箱をあさりながらお父さんの友達を探したが、どこにも見つからなかった。

四週間目に入った深夜、ある街角で覚えのある匂いを見つけた。それは食べ物と猫の匂いが混ざったような懐かしい匂い。あ。クロの小さな脳裏に浮かんだのはおばちゃんの顔。そこは白い壁の四角い大きな建物の前。そうだ、おばちゃんの匂いだ。そう感じたとたん、クロの四肢から力が抜けてその場に座り込んでしまった。どのくらいそうしていたのだろう。夜明けの匂いがして、近くの公園でさえずる鳥の声が聞こえた。クロは眼を開く力もなく横たわって、静かに何者かが近づいて来るのを感じ取った。

「クロ、クロちゃん?」

ひと伝いには聞いていた。黒い犬を連れたホームレスのおじさんが亡くなったと。そしておじさんが連れていた黒い犬は、おじさんの友達に引き取られたと。だけど、ここにいるのは間違いなくあのクロだ。おばちゃんは力なく動かない赤ん坊ほどもある体重のクロをなんとか抱き上げてマンションの部屋に連れ帰った。クロはいったんは眼を開けて元気を取り戻したかと思われたが、疲弊しすぎたのか、既になんらかの病が進行していたのか、お父さんの後を追いかけたかったのか、五日後におばちゃんに看取られながら最後の息を吸い込んだ。 

                                了


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