<あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵に相応しい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。(13節)> マタイ書5章は「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。『心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。』」と山上の説教が始まる。 有名な箇所なので、読むたびいろいろ推理する。救いを求めてぞろぞろと後を追う貧しい民衆。彼らを振り切るように山に登られ、主イエスは近寄って来た弟子たちにだけ語られたのだろうかと今回は推理した。弟子として主イエスの後を継ぐ彼らに「これだけは知ってほしい」という思いで話されたのだろうか。 最初は「心の貧しい人々」について、経済的に貧しい人々のことだと思っていた。けれど、「心」とあるので、神を知らずに傲慢に生きている人なのかとも思ったが、直訳では「霊において貧しい」であり、自己の人間的貧しさに気付いている人々の意味であると教えてもらった。 「貧しい人々」の次は「悲しむ人々は慰められる」その次は「柔和な人々は地を受け継ぐ」と弟子たちへの説教は続けられてゆく。 「柔和という言葉には、『喜んで仕えること』『謙遜であること』という意味があります。謙遜とは、自分を知り、分をわきまえる姿勢です。自分は神様によって創られ、神様にすべてを知られ、神様に生かされている存在なのだということを意識して生きるのが謙遜という事です」と白井牧師は説かれている。 知人が、苦手な人と会う時は鏡に笑いかけてから会うようにしていると言っていた。それを聞いて、自分はすぐに顔に出てしまうので彼女を見習っている。しかし、ヤコブに指摘されるように、自分が内包する妬みや利己心が災いし、柔和であり続けるのは難しい。 真理に逆らって嘘をついたりする知恵は、上から出たものでなく、この世のもの、悪魔から出たものだと言って、「妬みや利己心のあるところには、混乱やあらゆる行いがある。」とヤコブは警告する。 病気見舞いにお伺いし、慰め、手を握り、祈り合っても、その言葉や行いが神の知恵から出たものでなければ、ただの憐みや同情でしかなく、自己満足に過ぎないと警告された。 「『上からの知恵』は、私たち自身で得られるものではなく、ただ謙遜に、主にお願いするほかはありません。神様を仰いで、適切に判断することが出来る知恵を頂きながら、生きて行きたいものです。」と白井牧師は結ばれる。 日曜日はお近くの教会で礼拝を http://www1.ocn.ne.jp/~church/japan.htm どなたでもどうぞお越しください。お待ちしています。
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