内容(「BOOK」データベースより)最初にお断りしておきますが、この小説には架空の登場人物が結構登場している。僕らが日本史の教科書で習ったような足利氏の面々、楠木党の面々、南朝方の要人の多くは実在の人物だが、楠木正儀の愛妾に敷妙なる美女がいたかどうかは謎だし、唐土屋伽羅作なる堺の商人がいて正儀を助けたというのも実際にあった話とは思えない。第3巻でいえば、大塔宮護良親王のご落胤が十津川峡で育てられていて、南朝から親王と認定されて正儀の手によって播磨の赤松則祐の下に送り込まれたというのはフィクションだろう。確かに赤松則祐は若い頃護良親王に仕えて山伏姿で歩き回っていたのは他書でも紹介されていて事実性が高いだろうし、播磨の赤松が南朝に寝返ったことにより、西国にいた足利直冬と京の足利直義が分断され、尊氏と直義の兄弟対立が尊氏優勢に傾くきっかけとなったのも事実だ。しかし、大塔若宮というのは多分実在しなかったんじゃないだろうか。 第3巻でもう1つ大きいのは、正儀が京都奪還を急ぐ理由として、北畠親房が倒れて半身不随になり、親房が健在であるうちに京都を見たいという願いを叶えんとするためだとされていることだ。南北朝時代の歴史小説や解説書を読んでいて、楠木正儀以上に評価が分かれるのが実は北畠親房で、『吉野朝太平記』では好意的に親房を描いているが、親房の戦略が近視眼的で武士を下に見る考え方をするという評価が大半だ。従って、本編では正儀の良き理解者として正儀の対北朝工作を支えたとされる親房も、他書では逆に正儀の奏上に耳を貸さず、「武士は黙って朝廷の言うことを聞け」と高飛車な態度をとり続け、やがて正儀が南朝方を離脱する原因を作ったと評される。 その偉大なる理解者・北畠親房が倒れるというのも、どうもフィクションらしい。親房が病床に伏したのは、1352年2月の南朝軍京都奪還よりも後の話で、死去したのは1354年4月である。だから、本編で「准后親房の死期が近い」ことを理由に正儀が京都奪還作戦を練ったというのも、ドラマ性はあるけれど、残念ながらフィクションだと思われる。 今回ご紹介する第3巻は、1351年2月の高一族の滅亡から、1352年2月の足利直義暗殺、南朝軍による京都一時奪還までの1年間を描いている。『太平記』や『吉野拾遺』で書かれた出来事から外れたフィクションが相当盛り込まれているが、本編で初めて正儀の策略がシナリオ通りに進まないという不測の事態も起こり、これまでの順風満帆から正儀の限界も垣間見える内容となっている。 それにしても、ここまで読んでようやく折り返しを過ぎたところであるわけで、とにかく長い。この本がもっと最近書かれたものだったら、NHK大河ドラマのいい原作になっていたことだろう。今どき吉野を取り上げる理屈付けも難しく、実現可能性は相当低いだろうが…。
高師直は死んだ。尊氏と直義の間は険悪になっていた。楠正儀の愛妄敷妙は再び九州の直冬のもとへ。中国の豪族・赤松則祐は南朝に降参した。直義はもはや直冬の援軍を望めなかった。尊氏は偽りの降参を南朝に乞い、直義討伐の勅命をうけ、鎌倉に下った直義を殺害した。尊氏の留守をねらう正儀。大政は南朝に還えり、京都奪還に成功したかに見えたが…。南北朝時代という歴史の空白期を描いた直木賞受賞の代表歴史大作、いよいよ佳境。
↧
『吉野朝太平記』(3)
↧