内容(「BOOK」データベースより)
告知、恋愛、家族、出産…「死の病」ではなくなったのに、増え続ける日本人HIV感染者の性愛と家族の現実。極限の恋愛が織りなす性と死と希望の物語。著者初の国内ルポルタージュ。
石井光太さんが珍しく日本国内での取材に基づいてルポを書かれているので読んでみることにした。(単行本発刊が2010年なので、「国内初のルポ」と言える。石井さんはその後、東日本大震災の被災地での取材に基づくルポも書かれている筈だ。)
石井さんのスタイルは、取材対象に一定期間密着し、一緒に暮らしながら、当事者目線でルポを書いていくことだと思う。フィールドワークでいう「参与観察」というやつだ。異国での取材だし、どこかしらに生活拠点を確保しないといけなかったから、そういうアプローチも可能だったのだろう。一方、日本国内での取材となると、参与観察ではなく、インタビューが中心になる。こちらから出向いて行って、取材対象者からお話を聞くことになる。HIV感染者は、自身のHIV感染を周囲に語っていないケースもあり得るから、プライバシーがかなり尊重されなければいけない。自ずと取材対象者の生活圏でのインタビューなどご法度もいいところで、どこでどのように取材するのか細心の注意が必要になる。参与観察じゃないから、なんとなく著者自身が安全なところにいて、冷静かつ客観的に取材対象者のライフヒストリーを描いているところが特徴的だ。
HIVは、感染者にとって既に治療法が確立され、不治の病ではなくなってきている。でも、僕自身も含めて「HIV感染者」が目の前にいると身構えてしまう人は多いと思う。このことは感染者と非感染者を隔てる大きな心の壁となり得る。感染がわかった途端にそれまで培ってきた人間関係が壊れてしまうこともあるかもしれないし、人間関係が壊れるのを恐れてものすごい心の葛藤を強いられることもあるかもしれない。著者は冒頭でも語っているが、「HIV感染者にとって治療法が確立したことと、安心して生きられるようになることは、必ずしも一致するわけではない」(p.12)のだ。本書は、人がHIVに感染することで、どのように人生を揺さぶられたかということを、HIV/エイズによって人生を変えられた人々への取材を通じて描いたものだ。
HIVは、直径わずか100ナノメートルの小さなウイルスである。1ミリの1万分の1の大きさだ。1回の性行為によってこのウイルスに感染する率は1%にも満たない。だが、その微細で小弱なウイルスは、人の人生を大きく変えてしまう恐ろしさも秘めている。人間が他者と結びつくのに必要とする性の領域の奥深くに侵入し、それまで築き上げてきたものをいとも簡単に破壊してしまうことがあるのだ。(p.12)
扱っているケースはかなり極端なものが多いような気もする。同性愛者の常習行為に関する記述は、執拗過ぎて本当にそこまでやっているのかと眉をひそめたくもなった。過去の一時期に行なっていた売春行為が急に牙をむいて来るというケースでも、そこまで極端なものがどれくらいあるのかはよくわからない。読ませる本にするためにはある程度はそういうケースも含めないといけないというのはよくわかるので、それ自体に対する批判はない。
本当にいろいろなケースが紹介されている。血友病治療のために投与された非加熱製剤からHIV感染してしまった若者が、好きになった女性との結婚を女性の両親に許してもらうまでの葛藤、結婚しても性交渉が全くなく、夫のHIV感染により夫の性同一障害と長年にわたる同性愛が発覚してしまった老夫婦の話、自分が恋に落ち、結婚した相手の彫刻家が後になってHIV感染していることがわかり、自暴自棄になった夫から散々DVを受けた妻の話(夫はは自殺)、学生時代の一目惚れから見事に恋を成就させ、彼女の妊娠を機に一度は結婚を約束したが、直後彼女のHIV感染がわかり、勧められて受けた検査で自分自身の感染もわかり、死の恐怖から彼女とどうしても向き合えず、そのうちに身重の彼女が事故か自殺かわからない交通事故で命を落としてしまったという男性の話―――等等。同性愛者の乱交パーティのような記述には多少の違和感は覚えるけれど、身近なところで起こり得るかもというケースは本書の中にも結構出てくる。
多分、著者は一義的には、HIVに感染しないための予防の意識付けや、自分が感染してしまった場合の心の持ち方、パートナーが感染してしまった場合の心の持ち方といったものを読者に知ってもらいたくて、このルポを書いたのだろうと思う。先ずは、HIV感染者とその直接的なパートナーとの、2人の間の関係の変化に注目しているのだ。
「エイズは男女にとっていちばん大切なところに忍び込み、彼らを極限の状態にまで追いつめます。弱さや醜さや高慢さといった負の内面をむき出しにし、人間性を試してくるのです。殴ったり、蔑んだり、嫉妬させたりして、それでも2人がやっていけるかを冷淡に観察するのです。こんな底意地の悪い病気はありません。試された人間がボロボロになっていくのを眺めているのですから」(中略)「患者は死んだら終わり。けど、遺された者はその後もずっとHIVと関わっていかなければならないのです」(pp.172-173)
現在、HIV感染症は、医療者の間では糖尿病と同じような慢性疾患の1つとしてしかとらえられていない。適切なケアを受けていれば、死に至ることはないし、子どもを産むこともできるし、感染率もゼロ近くまで抑えられる。
にもかかわらず、かかわった人々の人生を大きく揺さぶるのは、HIVが性行為を通してうつるものだからだろう。性行為は人と人とを結びつけるのに大切な役割を持つ。人々はウイルスによってその人間関係を試されたり、破壊されたりする事実に震え上がり、過大な恐怖を抱く。「エイズなんだから、抱いて」と乞われても拒絶してしまう。ゆえに感染者もとり乱し、自ら破滅の道を辿ってしまうことがある。(p.189)
だが、その一方で、当事者である感染者とそのパートナーという2人の関係だけでなく、彼らと、その彼らを取り巻く周囲の人々との間の「壁」というのを僕達に突き付けているようでもある。例えば、自分の子供がHIV感染者と恋に落ちた場合、或いは結婚した後で相手のHIV感染が発覚した場合、父親としての自分はどのように振る舞えるのだろうかとか、職場やご近所に感染者がいることがわかった場合はどう振る舞うべきなのかとか、いろいろ考えさせられるのである。
治療法が開発されて死なない病気になってきたからといって、完治はしないから、様々な偏見や差別にさらされて生きていかねばならない。感染確認されれば、それまで培ってきた人間関係もズタズタにされる。この1ヵ月、僕はしばらく中断していたハンセン病の勉強に再び取り組もうと、都内で行なわれたセミナーなどに3回ほど出席してきた。治療法の変遷を改めて勉強する良い機会も与えてもらったが、一方でそこでの大きな課題も、回復者と周囲の人々との心の壁の問題だと改めて痛感させられた。そうしたハンセン病ほどではないかもしれないが、HIVにも似た構図があるという現実を、この本を読んで突き付けられたような気がした。