暫くして、全員の拍手が何となく収束するのでありました。盛んな拍手をしたせいか、閻魔大王官の道服の袖先が、大王官の両掌に絡んでいるのでありました。それをふり解こうと、閻魔大王官は両手を上に挙げて袖を手繰るのでありました。
実に以って拍子の悪い事に、両手を上に挙げている時に、閻魔大王官はふと顰め面をするのでありましたが、これは屹度、急に嚏を催したために違いありません。拙生の予想の通り、閻魔大王官は大口を開けて顎を突き出して顔を上に向けると、次の瞬間、勢い良くお辞儀をするように上体を屈めて、ヒャックション! と大音声でやらかすのでありました。同時に大袈裟な座礼の仕草宜しく、勢い口で両手を同時にふり下ろすのでありました。
閻魔大王官の袖が一瞬遅れて、ヒラリと文机の上に落ちるのでありました。拙生は唾がかかるのを恐れて、両手で遠慮気味に顔を庇って、咄嗟に後方に身を引くのでありました。
片袖が裁決箱の上にかかるのでありました。これまた実に拍子の悪い事に、閻魔大王官は嚏をしたと同時に、鼻水を垂らすのでありました。
その鼻水を大きな吸引音を響かせて啜り上げながら、閻魔大王官は裁決箱の上にかかった方の袖先で、鼻頭と鼻の下を何度も、如何にも無意識に、と云った感じでせわしなく擦るのでありました。閻魔大王官の鼻の下の白髭が、袖との強い摩擦のために少し纏まりを乱し、鼻頭は赤味を帯びて艶やかに光っているのでありました。
ところで、拙生の生まれ変わり地決定の裁決書類は、箱から角が少しはみ出しているのでありましたが、その裁決書類が閻魔大王官の袖の左右の動きに連れて、徐々に外に引き摺り出されてくるのでありました。そうして結局、書類は文机の上に摺り落ちて仕舞うのでありました。拙生は思わず目を見開くのでありました。と云う事はつまり、・・・
勿論、呑気にも閻魔大王官はその事にまるで気がついていないようでありました。それに丁度死角になっていたためでありましょう、後ろの補佐官達も書類が箱から落ちた事に全く気づかない様子であります。拙生一人、秘かに動悸を高鳴らせているのでありました。
鼻水が付着したためか、閻魔大王官は鼻頭と鼻の下を擦った袖を縦に二三度ふるのでありました。その時に文机の上に落ちた裁決書類は、閻魔大王官の膝の上へと更に落ちるのでありました。その後恐らく書類は、絹製と思しき光沢を湛えた滑らかな表面の、閻魔大王官のゆったりとした道服の膝からも滑り落ちて、文机に隠れた大王官の足下にまで滑落したでありましょう。もう誰の目にも映らない処に、書類はかき消えたのであります。
たじろぎのために、拙生の動悸が益々激しくなるのでありました。この動悸を打つという現象も、亡者の仮の姿の不可思議の一つでありましょうが、しかしもう、その不可思議を閻魔大王官に訊ねようと云う気も、拙生はすっかり失せて仕舞うのでありました。
拙生は書類が落ちましたよと、閻魔大王官に伝えようとして口を開くのでありましたが、その言葉を口腔の外に押し出すのを、拙生の喉仏が急に躊躇うのでありました。いやこれは、迂闊にここであっさりと伝えないで、この後の成り行きに任せる方が、確実に好都合な事が起こるかも知れないと云う横着心が、ふと頭の隅に兆したためでありました。
「どうかされたかの?」
拙生が口を開けた儘動きを失くしたのを見咎めて、閻魔大王官が聞くのでありました。
(続)
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