山田洋次『小さいおうち』の女優さん(黒木華)がベルリン映画祭で賞を獲ったとかで、原作を読んでみました。kindle版があり570円、思わずワンクリックで購入してしまいました(恐ろしい!)。源氏の第8巻、『悪霊』の第2巻も買って未読。kindleで「積ん読」が始まるともう目も当てられません、用心々々。
小説は、昭和5年から始まる東京の「女中(お手伝いさん)」の物語です。山田洋次は、昨年『東京物語』のリメイク版を監督していますから、昭和づいていることになります。
【女中タキ】
昭和5年、山形から上京してきたタキの14年に及ぶ物語です。タキは、小説家の家に女中として住み込み、その後平井家の女中として東京郊外の「小さいおうち」で昭和19年までの11年間を過ごすことになります。
『小さいおうち』は、米寿を迎えたタキが語る(手記)、昭和の中産階級の物語です。従って、主人公は平井一家の女主人・時子、その夫で玩具会社の役員・平井、小児麻痺を患った息子・恭一の3人です。
こういう、物語の語り手が存在する小説では、一見物語の圏外に立っているような語り手が、物語そのものに深く関わっていると場合があります(信頼出来ない語り手)。先日読んだカミュ『ペスト』でも、語り手は主人公の医師リウーだったいうオチが入りました。
では、タキはいかなる語り手なのか。最初に住み込んだ小説家はタキを評し、
女中にとっていちばんたいせつなもの、それは、掃除や炊事の手際の良さだけではないのだ。ある種の頭の良さのようなものだ。
と彼女を褒めています。また、J・S・ミルの恋人が、ライバル・カーライルの原稿を「誤って」焼くエピソードが登場します。優秀な女中は主人の思惑をいち早く読み取って、思惑を超えて主人のために行動を起こさなければならない。これは、タキが10年ぶりに小説家と再会した時にも語られています。何がミルだカーライルだとおもうのですが、これは伏線です。
生活物資が次第に手に入らなくなる戦時下で、タキは、御用聞きや商店主の心理を巧みに操って、肉や魚を入手しています。小説家の言う「ある種の頭の良さ」とは、場の空気を読み、相手の心理を嗅ぎ分ける(行動する)という賢さなのです。
そうしたタキが、平井家で何を見、どう行動したのか?。
【主人、時子】
物語の主人公・時子は、前夫が亡くなったため恭一と女中タキを連れて歳の離れた平井の元に嫁いだという背景があります。
旦那様からは、男の人の匂いがしなかった。・・・奥様が再婚してから赤ちゃんに恵まれなかったのには、理由があったのだと。
平井の秘密がさりげなく語られ、時子と夫の会社のデザイナーである板倉との戦時下の「秘めたる恋」へと続きます。時子は、平井に命じられて板倉に見合い写真を届けに行きます。タキは、時子が帰宅した姿を見て、
いまでも、はっきり、覚えている。 後姿の、帯の模様がいつもと逆になっていた。
板倉に召集令状が届き、時子は板倉に会いに行こうとします。タキは、時子の不倫が外部に漏れることを恐れてこれを必死で止め、時子に手紙を書かせ板倉を自宅に呼び寄せます。タキのいる自宅であれば、世間の耳目を集めないと考えたわけです。板倉が訪れると、タキはそっと庭に出ます。
ところが、タキの遺品から、この時時子が板倉に宛てた手紙が未開封のまま発見されます。ここで小説家がタキに語って聞かせたミルとカーライルのエピソードが浮上します。板倉に手紙を届けなかったわけです。が、板倉は手紙の指定通り時子の家を訪れています。
板倉は時子の招きなく訪れたのか、それともタキは手紙に沿って手記でつじつまを合わせたのか?、そもそも、タキは時子に手紙を書かせ、何故板倉に届けなかったのか?。「信頼出来ない語り手」タキは、届けなかったとは書いていません。
【タキと時子】
もうひとつの伏線があります。嵐の夜、板倉とタキが窓に板を打ち付けるエピソードです。タキは、
雨に濡れた人肌の匂いが鼻を打った。不思議なことに、ふとした瞬間にそれを思い出すことがあった。そして思い出すとなぜだか、うしろめたいような気持ちになった。
何故後ろめたい気持ちになったのか?。タキは板倉と時子の関係を知っていますから、主人の恋人に男を感じて後ろめたい気持ちになったのですが、事実はもう少し複雑です。その伏線が、時子の友人睦子が語る女学校時代の事件です。時子に熱を上げ騒ぎを起こした女学生の逸話です。その逸話につづいて吉屋信子の小説(黒薔薇だそうです)の一節を引用しますが、
好きになっちゃ、いけない人を好きになってるのよ
これは、板倉と時子の関係を言っているのではなく、タキと時子の関係を言っているわけです。タキに自覚があったのかどうかは分かりませんが、そういう文脈で「うしろめたい気持ち」になり、時子の手紙を板倉に渡さなかったわけです。
読者は、日本が太平洋戦争に突入してゆく昭和10年台の昭和を舞台に、女中タキの女主人・時子に対する恋を読まされたことになります。面白く無いかというと、これが面白い。真珠湾攻撃を聞いたタキの感想です、
十二月九日の朝刊には、大きな大きな活字でもって、『米太平洋艦隊は全滅せり』『我無敵海軍の大戦果』と、胸のすくような文字が躍動していたのだった。 わたしは表へ出て、深呼吸をした。
アメリカと戦争が始まって、なにがよかったって、世の中がぱっと明るくなったことだ。
たぶんこれが、軍靴が響く暗い時代だと聞かされた時代の、本当の庶民の姿でしょうね。物語は、女中タキと主人・時子、その恋人板倉の三角関係を軸に展開しますが、主人公は間違いなく「昭和」です。山田洋次が是非撮ってみたいと思った気持ちがよくわかります。







