<「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(13節)>
中風の人が自ら主イエスに救いを求める前に、主イエスは神による赦しを与えられた。同じように、今日の箇所でも徴税人マタイが願う前に主イエスは「わたしに従いなさい」と声をかけられた。
ローマ帝国は税金を徴収するために、地元の人々を雇っていた。彼らは大帝国に媚を売り、その力を盾にとり、必要以上の税を取り立て着服していると噂され、ユダヤの人々には軽蔑され、詐欺師や殺人犯とほとんど変わりないものとして忌み嫌われていた。
マタイがどうして徴税人になったのかはわからないが、彼はお金は持っていたが、人と接することもなく、蔑みの目を向けられることも日常化し、自分は神の赦しからは程遠いものだと思っていた。メシアだと噂される主イエスが目の前を通られても、自分には関係がないと思っていた。
マタイは主イエスの言葉に立ち上がり、収税所もそのままに従った。ルカ書とマルコ書ではマタイは「自分の家で盛大な宴会を催した」と記す。他の徴税人や、金貸し、娼婦たちもその席に招かれた。彼らもマタイ同様、神の道に外れた仕事をして糧を得ている自分を、神はお赦しにならない、自分は神から遠いものだと思っていた。
律法を第一に考えるファリサイ派の人々はこれを見て弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は彼らと食事をするのか」と尋ねた。弟子たちの心の中にも同様の驚きがあったのかもしれない。なぜ、師と仰ぐ自分の先生が、汚れた罪人たちを食事に招かれるのかと。
解説書は「イエスの使命の重要な部分は、メシアの晩餐会に罪びとたちを招待するということなのである。彼らはその価値があるから招待されるというものではなくて、神がその恩恵において彼らを含めたいと思われるからこそ招待されるのである。」と説いている。
主イエスは「なぜ」と問う彼らに「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と言われ、ホセア書6章「わたしが求めるのは・・・」を学ぶようにと勧められ、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と話された。
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