<人々は驚いて、「いったいこの方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。(27節)> 主イエスが宣教の根拠地とされた「カファルナウム」は、ガリラヤ湖の北岸にある漁業の町で、シリアとエジプトを結ぶ主要な貿易ルート上にあった。ヨルダン川の北にあるガリラヤ湖は山々に囲まれ、しばしば湖全域を暴風雨が襲った。 主イエスが舟に乗りこまれると、弟子たちも従った。その時、湖に激しい嵐が起こり、舟はのまれそうになった。弟子たちの何人かはガリラヤ湖の漁師であった。彼らは嵐が湖を襲う時、自分たちの力ではどうにもならないことを知っていた。 嵐の湖に木の葉のように翻弄される舟、弟子たちが右往左往する中で、しかし、主イエスは眠っておられた。彼らは主イエスを揺り起こし「主よ、助けてください。溺れそうです」と非難するように、自分たちがこんなに騒いでいるのを知らないのですかと叫んだ。 「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ』そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。」 主が共にいて下さるなら、最初から嵐は来ないはずではないかと思ってしまう。けれども、まだ十分に主イエスを信じきれていない弟子たちにとって、嵐はくぐらなければならない試練だったのかもしれない。説教でも「弱い所にこそ聖霊は豊かに注がれます。」と話されている。 苦境に陥りどうにもならなくなると、神様なんてあてにならないとついつぶやいてしまう。人には「神様も一緒に苦しんで下さっています」と言いながら、自分のこととなると、どうして神様がこんなことをされるのかと疑う「信仰の薄い者」は自分の姿である。 けれども今日の箇所には希望が与えられる。主が共にいて下さるからこの苦境に対抗することのできる知恵と力が確かに与えられると。だから、祈りをもって求めてゆきたい。 「信仰の薄いわたしたちはいつも恐れに取りつかれています。私たちは、決してひとりで生きているのではなく、常に主が共にいて下さいます。主がおられるのなら、安心していて良いのです」と森下牧師は結ばれる。
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